原日本统计委员会委员长,学士院会员,法正大学校长大内兵卫(1888~1980)致东京名医大久保丹次郎毛笔书简一通四页。以其名命名的“大内賞 ”是日本统计学界的最高奖项。1963年
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作者大内兵卫
年代建国后 (1949至今)
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上书时间2022-03-19
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大内 兵衛(おおうち ひょうえ、1888年(明治21年)8月29日 - 1980年(昭和55年)5月1日)は、大正・昭和期の日本のマルクス経済学者。専攻は財政学。日本学士院会員。元東京大学教授、法政大学総長。
兵庫県三原郡高田村(町村制後:松帆村、現:南あわじ市松帆脇田)出身。旧制洲本中学校(当時の在校生に川路柳虹、高木市之助がいた )、第五高等学校を経て東京帝国大学法科大学経済学科(現:経済学部)を首席で卒業(1913年に銀時計受領)。
東京帝大卒業後は大蔵省に書記官として入省(大臣官房銀行課〈後:銀行局、現:金融庁監督局〉配属 )。1919年に東京帝大経済学部が新設され、助教授に着任。財政学を担当した。1920年森戸事件に連座して失職し、大原社会問題研究所嘱託となり、マルクス主義を本格的に学ぶ。翌年ヨーロッパへ私費留学してハイデルベルク大学に入学。1923年東京帝大に復職。
1938年、労農派教授グループ事件で検挙・起訴され、大学は休職となる。1944年の第二審において無罪となったが、終戦まで東大への復職はかなわなかった。
GHQの占領時には、当時大蔵大臣だった渋沢敬三が、日銀顧問に迎え、東京裁判でも証言台に立った。1945年10月17日、ラジオで、政府の戦時債務打ちきりのため蛮勇を振え、と渋沢蔵相に呼びかけた。
1949年に東大経済学部を退官した後は、1950年より1959年まで法政大学総長。向坂逸郎と共に社会主義協会・社会党左派の理論的指導者の一人として活躍した。1955年5月から6月にかけて日本学術会議のソ連・中国学術視察団に加わった。門下の美濃部亮吉の東京都知事立候補を強く支持し、美濃部都政を助けるなど、実践面でも社会主義を貫いた。また、鳩山一郎や吉田茂からの大蔵大臣への就任要請を断ってきた 。社会保障制度審議会初代会長を務め、国民皆保険や国民皆年金の創設などを答申した 。
傾斜生産方式で日本の経済復興を促進させた有沢広巳は門下である。
ソ連・中国学術視察団を経て、大内は社会主義について、「私も社会主義を勉強すること実に40年であるが、なにぶん進歩がおそく、社会主義がユートピアであるか科学であるかは、今まではっきりわからなかった。しかし、ここへ来て、いろいろの見学をして見て、それが科学であることはしかとわかった」と述べた 。また、経済学の分野に関しては「ロシアの経済学は二十世紀の後半において進歩的な特色のある学問として世界の経済学界で相当高い地位を要求するようになるだろう。……こういう歴史の変革のうちに経済学者としていよいよ光彩を加える名はレーニンとスターリンでありましょう」と、ソ連の計画経済を高く評価し、レーニン、スターリンの両名を経済学者として激賞した 。しかし、ソ連の社会主義経済はその後30年あまりで崩壊することとなる。
ハンガリー動乱について社会主義擁護の視点から、「ハンガリアは(米・英・日と比べて)政治的訓練が相当低い。そのためハンガリアの民衆の判断自体は自分の小さい立場というものにとらわれて、ハンガリアの政治的地位を理解していなかったと考えていい」、「ハンガリアはあまり着実に進歩している国でない。あるいはデモクラシーが発達している国ではない。元来は百姓国ですからね。」と、ソ連の圧政に対して蜂起したハンガリーの国民を批判的に論じた 。
東大安田講堂事件について論じた論文「東大は滅してはならない」(雑誌「世界」1969年3月号)で、「大学という特殊部落」という表現の記述があり、部落解放同盟の追及を受けたことがある(同誌3月号は回収し、4.5月号で謝罪)。
また次男大内力も、同じくマルクス経済学者で元東京大学経済学部教授・副総長だった。
東京大学経済学部には現在でも彼の名前を冠した「大内兵衛賞」が存在し、極めて優れた卒業論文を提出した学生が表彰されている。他に、吉田茂に請われ政府統計委員会委員長として戦後の統計の再建に尽力した業績を記念し「大内賞」というものもあり、統計界の最高栄誉とされている。
法政大学には大内の名前を冠した「大内山庭園」があり、学生の憩いの場となっている 。また、2019年に完成した新校舎は「大内山校舎」と命名された 。
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