日本制文房名品:随形淌池龙溪砚
¥
220
九五品
仅1件
制作者日本工匠
年代大跃进 (1956-1965)
材质龙溪石
尺寸18 × 7.5 × 3 cm
上书时间2024-11-25
商品详情
- 品相描述:九五品
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【名 称】:龙溪石随形砚台
【产 地】:日本国,长野县,辰野町,锅仓山
【时 代】:上世纪五、六十年代
【品 相】:基本未使用,品相完好
【材 质】:龙溪砚石
【尺寸】:长18cm,宽7.5cm,高3cm
【重量】:重757克
- 商品描述
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【龍溪硯】(りゅうけいすずり):
信州龍溪硯, 產於日本長野縣辰野町。 信州是古名, 即古時的信濃國、 也便是現在的長野縣。
龍渓硯の歴史:
江戸時代、上島村(現、辰野町渡戸、上島地区)の農民が鍋倉沢で砥石を掘って作間稼ぎをしておりましたが、砥石になる石は少なく、掘れば掘るほど黒い石ばかりでありました。文政十一年(1828)横川、一ノ瀬村に医を開業するかたわら寺子屋式に学問を授け書道をたしなんでいた淵井椿斎が、この鍋倉山に露出している粘板岩に目をつけ硯を作って使用してみますと、墨のおりがよかったので、村人たちに硯作りをすすめました。
その頃高遠藩では財政困難を立て直そうと色々な施策を実施した中で産物会所が創設されました。高遠藩はこの鍋倉山の石に注目し、御留山としてすべての硯石を産物会所へ取り入れ、硯作りの先進地である甲州鰍沢鬼島雨畑硯の産地から硯工を招いて硯作りの技術指導をさせました。買い上げた硯は大名などへの贈り物とされ民間に流伝することなく、一時は秘硯といわれた時代もありましたが、その後江戸や大阪など領外へ「高遠硯」、「伊那硯」、「鍋倉硯」として販売されるようになりました。硯石は渡戸鍋倉山の他上島村穴倉山からも掘らせ渡戸、上島、宮所、雨沢等で七十余名の硯工によって年産二千面を作硯していたようです。
しかし明治時代になってから鉛筆・ペン・万年筆などの普及により硯の使用が少なくなり次第に衰えましたが、昭和になり硯が見直されると需要が増し、今村や渡戸では再び硯屋さんのいる村となりました。この中に甲州からやってきた初代の秀石もいたのです。
龍渓硯の由来
昭和十年、当時の長野県知事大村清一氏によって「龍渓石」と命名され、この石で作った硯を「龍渓硯」と呼んでいます。尚、「龍渓」の名称の由来につきましては、天龍川水系で産出するということで「龍」の一字を冠したのですが、「渓」につきましては天龍川水系の横川川の渓流、あるいは渓谷美の素晴らしさから「渓」をつけたという説と、中国広東省の古来有名な硯石の産地端渓で硯が製作され、広く世界で愛用されていることに因んで「渓」の字を頂いて命名されたという説があります。後、昭和62年に長野県知事指定伝統的工芸品に指定されました。
龙溪砚的历史:
江户时代,上岛村(现在的辰野町渡户、上岛地区)的农民在锅仓泽挖磨刀石来挣农活,但是能做磨刀石的石头很少,越挖越黑。文政十一年(1828年),渊井椿斋在横川一之濑村行医,同时以寺子屋的方式传授学问,擅长书法。他注意到锅仓山露出的板岩,制作了砚台,向村民们推荐制作砚台。
当时,高远藩为了重整财政困难,实施了各种政策,在此过程中创设了产物会所。高深藩注意到锅仓山的石头,将所有的砚石作为御留物引入产物会所,并从制砚先进地——甲州鳅泽岛雨畑砚产地邀请砚工进行制砚技术指导。被收购的砚台被作为送给大名等人的礼物而没有在民间流传,有一段时期被称为秘砚,之后在江户和大阪等领外地区以“高深砚”、“伊那砚”、“锅仓砚”的名义销售。砚石除了锅仓山之外,还从上岛村穴仓山挖掘,在渡户、上岛、宫所、雨泽等地有七十余名砚台工,年产砚台两千方。
但是到了明治时代,由于铅笔、钢笔、钢笔等的普及,砚台的使用逐渐减少,砚台逐渐衰退,到了昭和时代,砚台被重新重视,需求增加,今村和渡户再次成为有砚台铺的村庄。其中还有从甲州来的初代秀石。
龙溪砚的由来:
昭和十年,当时的长野县知事大村清一先生将其命名为“龙溪石”,用这种石头制作的砚台被称为“龙溪砚”。另外,关于“龙溪”名称的由来,因为产自天龙川水系,所以冠上了一个“龙”字,而关于“溪”,则是天龙川水系的横川的溪流,或是美丽的溪谷,所以取了“溪”字。有一种说法是,中国广东省自古以来有名的砚石产地端溪制作的砚台,在世界上广受欢迎,因此取“溪”字命名。后来,昭和62年被长野县知事指定为传统工艺品。
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【名 称】:龙溪石随形砚台
【产 地】:日本国,长野县,辰野町,锅仓山
【时 代】:上世纪五、六十年代
【品 相】:基本未使用,品相完好
【材 质】:龙溪砚石
【尺寸】:长18cm,宽7.5cm,高3cm
【重量】:重757克
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