日本医学会原会长,宫廷首席医官入泽达吉(1865~1938)书简一通一页(见图1~图6)。另一件为日本皮肤科学会会长,医学博士冈村龙彦书简(1870~1952)一通一页。原为日本东京名医大久保丹次郎旧藏。
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八品
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作者入泽达吉 冈村龙彦
年代民国 (1912-1948)
页数2页
上书时间2024-11-14
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入沢達吉
生涯
略歴[1]
入沢達吉は1865年1月31日(元治2年1月5日)に越後国新発田藩藩医入沢恭平の長男として、南蒲原郡今町(現新潟県見附市)に生まれた。1870年(明治3年)1月寺子屋にて手習いを覚え、1876年(明治9年)10月、叔父池田謙斎の勧めで上京し私塾に通う。1877年(明治10年)11月東京大学医学部予科に入学する。1883年(明治16年)東京大学医学部本科に進級、1889年(明治22年)1月31日東京帝国大学医科大学(学制変更により改名)を卒業し、ベルツ(Erwin von Bälz)に師事し内科無給助手となる。
1890年(明治23年)3月9日ドイツに私費留学のため横浜を出港、パリ経由にてストラスブルク大学生理化学研究室に入る。翌年内科学教室・病理学教室に入る。1892年(明治25年)12月ベルリン大学に転じ内科学・精神科・病理学を学ぶ。1894年(明治27年)1月10日ベルリンを発ち、2月23日帰国する。同年3月7日宮内省侍医局勤務を任じられ東宮附きとなるが、5月30日依願退職し日本橋区南茅場町にて開業する。1895年(明治28年)4月21日医術開業試験医院に命じられ(翌年依願退職)、10月12日母校東京帝国大学医科大学助教授となり診断学講義を担当する。1896年(明治29年)11月11日済生学舎での内科臨床講義担当を兼務する(翌年辞任)、翌年4月1日東京府養育院医長を(1902年(明治35年)12月退任)、5月1日東京市駒込病院医長を兼務(1898年(明治31年)11月退任)し、同月10月足尾銅山事件調査委員に任命される。1899年(明治32年)3月27日論文「血中及び尿中における乳酸に就いて」外の論文提出・審査により医学博士学位を授与される。
1901年(明治34年)、5月2日日本薬局方調査員を命じられ、5月14日東京帝国大学医科大学教授に昇進し内科学第四講座を担当する。1902年(明治35年)4月4日東京で第一回聯合医学会が開かれ、席上日本内科学会創立が発議され会長に青山胤通、委員に入沢・吉峰英世・岩井禎三が選出される。1905年(明治38年)7月29日再度医術開業試験委員を命じられ、医術開業試験附属永楽病院長兼内科医長(1909年(明治42年)辞任)を兼任。1909年(明治42年)日本内科学会会長に就任する。1912年(明治45年)5月20日、長期海外出張前に医科大学内科第四講座担当を免じられ、満州よりシベリア鉄道でヨーロッパ各国・翌年アメリカを訪問し医事視察等を行い、1913年(大正2年)5月5日帰国する。帰国後5月15日内科学第三講座を担当する。1919年(大正8年)4月1日東京帝国大学評議員に就任する(この年、分科大学から学部制になる)。1920年(大正9年)12月、宮内省御用掛に任じられる。1921年(大正10年)2月22日医学部附属医院長に就任、4月25日医学部長を命じられる(1924年(大正13年)4月任期時に退任)。同月結核学会会長に就任し、5月31日中央衛生会委員になる。1924年(大正13年)6月13日宮内省御用掛を免じられ、宮内省侍医局侍医頭を命じられる。
1925年(大正14年)1月31日定年により東京帝国大学医学部教授を退任し、2月16日同仁会副会長に就任し4月8日名誉教授となる。1926年(大正15年)6月日独協会理事長となり第一次世界大戦により休止中であった協会の再興に努める。同年12月1日ドイツ・フライブルク大学名誉学位を贈られる。葉山御用邸にて大正天皇の病気治療に専念する。1927年(昭和2年)6月22日宮内省親任官の待遇を賜い、8月勲一等瑞宝章を授与され、9月23日侍医頭を辞任する。1928年(昭和3年)1月日本医史学会創立に参加し理事に就任、1930年(昭和5年)1月8日ドイツ赤十字第一等名誉賞を賜う。1934年(昭和9年)4月1日第9回日本医学会にて会長に就任する。1936年(昭和11年)6月ドイツ・ハイデルベルク大学名誉学位を贈られ日独協会名誉会員となる。 同年7月「科学ペンクラブ」を理学博士石原純等と共に創設する[2]。 1938年(昭和13年)3月同仁会副会長を辞任す、4月第十回日本医学会第一分科医史学会に会長として出席し、医学会総会において名誉会長に就任する。同年11月5日脳溢血により倒れ、同月8日薨去。墓所は谷中霊園。
叙爵・叙勲 従二位勲一等
栄典・受章・受賞
位階
1916年(大正5年)12月1日 - 正四位[3]
1927年(昭和2年)12月28日 - 正三位[4]
勲章等
1915年(大正4年)11月10日 - 大礼記念章[5]
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