日文 上册缺下册 ゾルゲ追跡(上) W.ディーキンG.R著 日本岩波現代文庫珍藏版社会G.R.ストーリィ著者佐尔格间谍跟踪调查 ,河合秀和翻译訳者64开ユダ―ゾルゲ事件 WA GA戦後への美国调查报告日本2003版315页尾崎秀实,川合案件美国记者艾格妮丝·史沫特莱上海同居日本特高上海调查取证处死苏联中共上海间谍团事件牵扯多人多方调查揭密按时间顺述研究论文揭露日共伊藤律叛徒历史机密档案
美国作者震惊震撼党内叛徒出卖革命同志与日本特高特务勾结告密制造历史冤案成为日本共产党革命历史罪人珍贵珍藏版新品像高级纸张印刷绝版珍本善本孤本多图证人物证人证历史档案解密审判被捕入狱经过真相党内工作中国收监川合贞吉北林伊藤猛虎加藤四海吉河毛利基大连满铁支社干部青柳喜久代宫下弘志贺義雄志田重男美军司令下令解除共产党伊藤律逃亡中国被收监关押北京监狱细川嘉六跨田里见河田贤治伊藤律也曾在大连满铁就职岩崎五郎
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作者日本作者尾崎秀樹著被处死苏联间谍佐尔格和尾崎秀实事件,牵扯多人尾崎被处决后其多图揭露日本共产党领袖伊藤律党内奸细叛徒内奸密告检举牺牲党内同志爱国者佐尔格尾崎秀实历
出版社日本新人物往来社出版 特务勾结告密制造历史冤案成为日本共产党革命历史罪人珍印刷绝版珍本善本解密审判被捕河毛利基大连满铁支社干部青柳喜久代宫下弘志贺義雄志田重男美军司令下令解除共产党伊藤律逃亡中国被收监关押北
ISBN9784006030735
出版时间1980-11
版次1
出版地日本国japan日本东京tokyo
印刷时间1980-11
印次1
装帧精装
尺寸215 × 125 cm
页数256页
字数300千字
定价169.89元
正文语种日本国语japanese日文日語日本语
货号yyd64okh328kk17128
上书时间2024-12-27
商品详情
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(日文震惊震撼党内叛徒出卖革命同志与日本特高特务勾结告密制造历史冤案成为日本共产党革命历史罪人珍贵图片照片珍藏版新品像高级纸张印刷绝版珍本善本孤本多图证人物证人证历史档案解密审判被捕入狱经过真相党内工作中国收监川合贞吉北林伊藤猛虎加藤四海吉河毛利基大连满铁支社干部青柳喜久代宫下弘志贺義雄志田重男美军司令下令解除共产党伊藤律逃亡中国被收监关押北京监狱细川嘉六跨田里见河田贤治伊藤律也曾在大连满铁就职岩崎五郎本 生きているユダ―ゾルゲ事件 その戦後への証言 角川文庫出版 尾崎秀樹著 95年日本影视化处死苏联间谍。1914年应征加入德国军队,参加过第一次世界大战。1919年加入德国共产党。1924年来到苏联,在苏联机关工作,撰写了许多有关国际关系方面的著作。1925年加入苏联共产党。在别尔津推荐下,被苏军侦察机关录用。30年代—40年代在德国、日本等国长期为苏联获取有价值
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きているユダ―ゾルゲ事件 その戦後への証言 角川文庫出版 尾崎秀樹著 95年日本影视化处死苏联间谍佐尔格和尾崎秀实事件,牵扯多人尾崎被处决后其弟尾崎秀樹多方调查揭开密解说研究论文多图 本角川書店出版 1995影视化日本处决大事件牵扯多人解说研究论文3篇百苏解体调查万件机密
他1924年来到苏联,在苏联机关工作,撰写了许多有关国际关系方面的著作。在别尔津推荐下,被苏军侦察机关录用。三十至四十年代在德国、日本等国成功地
1932年2月,佐尔格完成在中国的使命,经海参崴回到莫斯科,受到有关部门的热烈欢迎。1933年4月的一天,佐尔格奉命来到别尔津的办公室。别尔津问他对今后的工作有什么考虑,佐尔格激动地说:“在东京我也许能干点事。”这正中别尔律的下怀。自从20年代日本干涉苏俄革命起,苏联一直把日本当作东方最危险的敌人。“九·一八”事变后,苏联决定在日本组建情报网,别尔津正打算把这个任务交给佐尔格,两人一拍即合。经过具体的筹划,佐尔格决定取道德国到日本。 柏林是佐尔格的第二故乡。佐尔格通过熟人和朋友从《法兰克福日报》编辑部弄到驻东京特派记者的身份证,从国家社会主义理论刊物《地缘政治》编辑部里搞到进见日本驻美国大使出渊先生和德国驻东京大使馆外交官的介绍信,从《每日展望》编辑部里搞到进见德国临时助理武官尤金·奥特的介绍信。他们都把佐尔格说成政治上完全可靠的人。[3]
1933年5月,苏联决定派佐尔格建立在日本的间谍网。7月,佐尔格又到华盛顿拜见日本驻美国大使出渊先生,从他那里获得进见日本外务省情报司司长天羽荣二的介绍信。9月6日,佐尔格怀揣各种高级介绍信,抵达横滨。 他受到上级的警告,不要同处于地下状态的日本共产党或东京的苏联大使馆进行联系。[4]
在东京,佐尔格首先拜访德国驻日大使馆的外交宫奥特,他俩一见如故。临别之际,使馆的人员说要介绍佐尔格进见外务省的人员,佐尔格颇为得意地说:“我兜里揣着给天羽的信,因此不再需要给日本外务省的介绍信了。”次日,佐尔格便去外务省拜见天羽荣二。天羽在他每周举行一次的记者招待会上,介绍佐尔格与日本记者和外国驻日记者见面。佐尔格抓住这个机会,广泛开展活动。[5]
不久,一个潜伏在日本的苏联谍报组织“拉姆扎”小组成立了,成员有南斯拉夫籍的勃兰科·伏开利克(苏共党员)、德国人马克斯·克劳森(苏共党员)、日本人宫木佑德(美共党员)、尾崎秀实(日本《朝日新闻》记者)等。到1941年11月,这个小组发展成为由39人组成的国际性组织。1933年10月,佐尔格又加入纳粹党,进一步获得工作的便利条件。1935年7月,佐尔格搞到一份关于日本陆军体制、领导人、内部派系等内容的情报,“拉姆赛”小组初战告捷,佐尔格兴高采烈地绕道美国、法国、波兰回莫斯科报告了工作情况。佐尔格在集中精力搞情报工作的同时,自然不会忘记自己是“记者”。他凭借自己敏锐的观察力和准确的判断力,给《法兰克福日报》发回不少高质量的稿件,使自己在德国的声誉日增。[6]
1936年,日本国内发生二·二六事件,1400名日本下层官兵举行叛乱。日本当局对政变内幕严加封锁。苏联指示“拉姆扎”小组摸清其中内情,掌握日本局势的动向。佐尔格驱车来到奥特武官的办公室。奥特把他拉入一间密室,说:柏林要求尽快摸清二·二六事件的内情和日本政局的发展动向。说罢,随手递了一些零散材料给他。佐尔格带着材料回到自己的卧室,与宫木、尾崎等收集的情报放在一起分析,然后写了-份研究报告,大意是:日本政局不会因此发生大的变化。这份材料分别被送到柏林和莫斯科,双方都感到很满意。奥特因此受到柏林的嘉奖,佐尔格因此得到任何时候都可以阅读使馆所有文电材料的特
佐尔格的所作所为早就引起了日本宪兵和特高课的注意。但日本碍于日德友好而佐尔格是德国大使馆的贵宾,不敢轻易下手。东京警察厅曾将他的情人石井花子叫去盘问。花子说这纯粹是信口雌黄,根本没有这回事。实际上,佐尔格从未跟她透露过自己的真实身份。佐尔格知道石井花子被传讯后十分震惊,但表面故作镇静,并大胆而礼貌地批评警察厅打扰了一位盟国朋友,弄得警察厅长十分尴尬,只好赔礼道歉。然而,警察厅并没有就此罢休,决心从打击日本共产党入手,警察厅首先拘留了曾于1939年被捕的日共党员伊东立的管家青柳喜久代,通过她供出了北林智子,北林智子在受审时无意中提到了宫木的名字。日本当局立即逮捕官木,宫木受刑不过,于10月12日招出佐尔格及其他小组成员。于是,佐尔格“拉拇赛”小组的全体成员均被逮捕。[15]
1941年10月14日,尾崎秀实被捕。佐尔格接到警告,秘密警察正在逼近他,他决定同他在当地酒吧结识的日本情人一道离开。不过,一个小错误使他付出了沉重代价。他没有烧毁警告他的纸条,而是将它扔在路旁。尾随他的警察迅速地拾起了这张作为他罪证的纸条。[16]
1941年10月18日,佐尔格的谍报网暴露,在东京他情人的家中被日本警察特高课逮捕。最初,由于他的德国侨民和纳粹党员身份,日本人相信佐尔格是一名Abwehr成员。不过,Abwehr 组织否认佐尔格是其成员。虽然经受了严刑拷打,他还是否认所有与苏联的关系。由于苏联政府和佐尔格本人都否认苏联间谍的身份,佐尔格未能与日本战俘进行交换。他被监禁在巢鸭监狱。[17]
1944年11月佐尔格于东京被秘密绞死,终年49岁。尾崎秀实也在同一天早些时候被绞死。最初,他被埋葬在巢鸭监狱的墓。1949年,他的情人石井花子将他的遗体迁葬于东京多磨陵园17区1种21侧16番,石井花子在去世前,经常前去扫墓,她在2000年死后与其合葬。[18]
3 历史评价 编辑
举止高雅,气度雍容的理查德·佐尔格是二战中最富有传奇色彩的人物。谁也不会想到,这位毕业于柏林大学和基尔大学的博士,在东京德国使馆内有单独办公室并与使馆官员亲密无间的著名记者竟是为莫斯科工作的。他就德国要发动对苏战争提出的警告和日本不会在西伯利亚采取行动作出的准确判断已作为谍报活动的典范载入史册。他的胆识和智慧一直为人们所称颂,被誉为“最有胆识的间谍。”他的信条是:不撬保险柜,但文件却主动送上门来;不持枪闯入密室,但门却自动为他打开。[19]
1964年11月5日,苏联政府追授佐尔格为苏联英雄,授予金星勋章。为了纪念佐尔格,苏联的一艘油船、莫斯科的一条街道以佐尔格命名。1965年,苏联还发行过佐尔格纪念邮票。[20]
4 相关作品 编辑
《爱は降る星のかなたに》 1956年 日本 主演:森 雅之、浅丘 琉璃子
《你是谁,佐尔格先生?》 1961年 日法合拍 主演:马里奥·阿道夫、岸 恵子
《间谍佐尔格》 2003年 日本 主演:伊恩·格雷、岩下 志麻、本木 雅弘
《佐尔格其人》 2003年 石井花子著
《佐尔格的狱中手迹》 1990年 日本外务省编
ドイツ人を父に、ロシア人を母に、アルゼバイジャン( ロシア領)のバクーで生まれたことは、彼の人生に少なからぬ影響を及ぼしたものと思 われます。ゾルゲは3歳でドイツに帰り、ソ連のスパイとなるまでその ...太平洋戦争も終末を迎える頃、一人のスパイが処刑された。その名はゾルゲ。戦後、 明らかにされたその謀報活動と正確無比な報告は、世界中を震憾させた。二十世紀 最大のスパイとして、歴史に名を刻むゾルゲの生涯を覆っていたものは、その複雑な 生い立ち ...[T-SITE]国際スパイ ゾルゲの真実のあらすじ・みどころ・評価・感想や、レンタル・動画 配信・購入・販売店検索。モスクワKGB公文書館が所蔵する未公開記録や、当時の 関係者による証言をもとに制作された完全ドキュメント。ゾルゲの隠された活動、そして、 日本 ...ゾルゲ事件
ゾルゲ事件(ゾルゲじけん)は、リヒャルト・ゾルゲを頂点とするソ連のスパイ組織が日本国内で諜報活動および謀略活動を行っていたとして、1941年9月から1942年4月にかけて[1]その構成員が逮捕された事件。この組織の中には、近衛内閣のブレーンとして日中戦争を推進した元朝日新聞記者の尾崎秀実もいた。
太平洋戦争開戦直前の1941年9月から1942年4月にかけて、ドイツのフランクフルター・ツアイトゥング紙の記者として東京に在住していたゾルゲや尾崎らのグループはスパイ容疑で警視庁特高部特高第1課と同外事課によって逮捕された。軍事情報のスパイは陸軍の憲兵隊の管轄であるが、コミンテルンのスパイとして特別高等警察が取り扱った[2]。
特別高等警察はアメリカ共産党党員である宮城与徳やその周辺に内偵をかけていた。宮城や、同じアメリカ共産党員で1939年に帰国した北林トモなどがその対象であった。満州国の憲兵隊からソ連が押収してロシア国内で保管されていた内務省警保局の「特高捜査員褒賞上申書』には、ゾルゲ事件の捜査開始は「1940年6月27日」であったと記されている[3]。
なおこれを知ったドイツ大使館付国家保安本部の将校で、ゾルゲと親しく特高との関係も深かったヨーゼフ・マイジンガーは、ゾルゲに対する捜査を止めるように特高に依頼している。またマイジンガーは、ゾルゲの逮捕後にベルリンの国家保安本部に対して「日本当局によるゾルゲに対する嫌疑は、全く信用するに値しない」と報告している[4]。さらにオット大使や国家社会主義ドイツ労働者党東京支部、在日ドイツ人特派員一同もゾルゲの逮捕容疑が不当なものであると抗議する声明文を出した[5]。
1941年9月27日の北林を皮切りに事件関係者が順次拘束・逮捕された[6][7]。10月10日に宮城が逮捕され、この際に行われた家宅捜査では数多くの証拠品が見つかり、事件の重要性が認識された。宮城宅を視察することによって10月13日には九津見房子、秋山幸治が逮捕された。宮城は取調べの際に自殺を図るが失敗、以後は陳述を始め、尾崎秀実やリヒャルト・ゾルゲなどがスパイであることが判明した。このとき、在日ロシア人のアレクサンドル・モギレフスキー(ヴァイオリニスト)、同じくレオ・シロタ(ピアニスト)、その娘ベアテ・シロタ・ゴードン(のちの日本国憲法の起草者の一人)、クラウス・プリングスハイム(指揮者)の次男クラウス・フーベルト・プリングスハイム、関屋敏子(声楽家)などの音楽関係者もスパイ容疑をかけられた[8]。
捜査対象に外国人がいることが判明した時点で、警視庁特高部では特高第1課に加え外事課が捜査に投入された。尾崎とゾルゲらの外国人容疑者を同時に検挙しなければ外国人容疑者の国外逃亡や大使館への避難、あるいは自殺などが予想されるため、警視庁は一斉検挙の承認を検事に求めた。しかし、大審院検事局が日独の外交関係を考慮し、まず尾崎の検挙により確信を得てから外国人容疑者を検挙すべきである、と警視庁の主張を認めなかった。このため、10月14日に尾崎の検挙が先行して行われ、10月18日外事課は検挙班を分けてゾルゲ、マックス・クラウゼン、ブランコ・ド・ヴーケリッチの3外国人容疑者を同時に検挙した。この際、クラウゼン宅からは証拠として無線機が発見されている[9]。
また、翌1942年(昭和17年)には尾崎の同僚であった朝日新聞東京本社政治経済部長田中慎次郎(3月15日)、同部員磯野清(4月28日)が検挙された。
尾崎秀実
リヒャルト・ゾルゲ
マックス・クラウゼン
ブランコ・ド・ヴーケリッチ
グループの逮捕後、尾崎の友人で衆議院議員かつ汪兆銘・南京国民政府の顧問も勤める犬養健、同じく友人で近衛文麿内閣嘱託であった西園寺公一、ゾルゲの記者仲間でヴーケリッチのアヴァス通信社の同僚であったフランス人特派員のロベール・ギランなど、数百人の関係者も参考人として取調べを受けたが、ゾルゲが当時の同盟国であるドイツ人であり、しかもオイゲン・オット大使やヨーゼフ・マイジンガーと親しいことや、前年にイギリスのスパイの疑惑で逮捕されたイギリスのロイター通信社の特派員のM・J・コックスが、特高による取調べ中に飛び降り自殺したこと(コックス事件)もあり、特に外国人に対する取調べは慎重に行われたという。
ゾルゲの個人的な友人であり、ゾルゲにドイツ大使館付の私設情報官という地位まで与えていたオット大使は、ゾルゲが逮捕された直後から、友邦国民に対する不当逮捕だとして様々な外交ルートを使ってゾルゲを釈放するよう日本政府に対して強く求めていた。しかし、間もなく特別面会を許されたオットは、ゾルゲ本人からソ連のスパイであることを聞き知る。
これを受けてオット大使はヨアヒム・フォン・リッベントロップ外務大臣に辞表を提出したが拒否された。さらにその後1941年12月に日本がイギリスやアメリカなどの連合国と開戦し、ドイツもアメリカとの間に開戦したこともあり、繁忙の中で大使職に留まり続け、ようやく1942年11月になりフォン・リッベントロップ外務大臣より駐日大使を解任された、その後南京国民政府の北京へと家族とともに向かい、そこで終戦までの間を暮らした。
裁判[編集]
ゾルゲらは1942年に国防保安法、軍機保護法、軍用資源秘密保護法、治安維持法違反[10]などにより起訴された。1審は1943年9月から翌44年3月にかけて東京刑事地方裁判所第九部で行われ(裁判長判事 - 高田正、判事 - 樋口勝・満田文彦)、以下の判決が下された。ゾルゲ・尾崎ら被告の大部分は大審院へ上告したが、全て棄却され刑が確定した[11]。
リヒャルト・ゾルゲ 死刑(1944年11月7日執行)
ブランコ・ド・ヴーケリッチ 無期懲役(1945年1月13日獄死)
マックス・クラウゼン 無期懲役(1945年10月9日釈放)
アンナ・クラウゼン 懲役3年(1945年10月7日釈放)
尾崎秀実 死刑(1944年11月7日執行)
宮城与徳 未決拘留中、1943年8月2日獄死
小代好信 懲役15年(1945年10月8日釈放)
田口右源太 懲役13年(1945年10月6日釈放)
水野成 懲役13年(1945年3月22日獄死)
山名正実 懲役12年(1945年10月7日釈放)
船越寿雄 懲役10年(1945年2月27日獄死)
川合貞吉 懲役10年(1945年10月10日釈放)
河村好雄 未決拘留中、1942年12月15日獄死
九津見房子 懲役8年(1945年10月8日釈放)
秋山幸治 懲役7年(1945年10月10日釈放)
北林トモ 懲役5年(1945年1月服役中危篤となり、仮釈放後の2月9日病死)
菊池八郎 懲役2年(釈放日不明)
安田徳太郎 懲役2年(執行猶予5年)
西園寺公一 懲役1年6月(執行猶予2年)
犬養健 無罪
処刑[編集]
刑が確定したゾルゲらは、巣鴨プリズンに拘留された。その後同拘置所に拘留され続け、1944年11月7日のロシア革命記念日に、ゾルゲと尾崎の死刑が執行された。
死刑執行直前のゾルゲの最後の言葉は、日本語で「これは私の最後の言葉です。ソビエト赤軍、国際共産主義万歳」であったと言われている。翌1945年1月にはヴーケリッチも北海道の網走刑務所で獄死したが、マックス・クラウゼンは戦後夫婦ともども連合国軍によって釈放され、生きて故郷の東ドイツに戻ることができた。
その後[編集]
宮城には1965年1月19日、当時のソ連政府から大祖国戦争第二等勲章が授与される事が決定した(尾崎も同様に叙勲されている)が、宮城は1943年に獄死し遺族の消息も不明であったため、2010年1月にようやく姪の所在が確認されロシアから伝達された[12]。
資料[編集]
ゾルゲ事件の取り調べを行った大橋秀雄(元警視庁警部補(当時))が保管していた調書、ノート、ゾルゲから大橋への書簡ほか数千点の資料が遺族から沖縄国際大学へ寄贈され、保管・公開される予定である。[13]
研究書・資料文献[編集]
※ゾルゲの著書はリヒャルト・ゾルゲ#著書を参照。
チャールズ・ウィロビー、福田太郎訳『赤色スパイ団の全貌 : ゾルゲ事件』 東西南北社刊、1953年。
尾崎秀樹『生きているユダ』 角川書店〈角川文庫〉。ISBN 4041390028
尾崎秀樹『越境者たち ゾルゲ事件の人々』文藝春秋社、1977年。
尾崎秀実『ゾルゲ事件 上申書』 岩波書店〈岩波現代文庫〉、2003年。ISBN 4006030754
片島紀男『ゾルゲ事件・ヴケリッチの妻・淑子―愛は国境を越えて』 同時代社、2006年。ISBN 4886835945
加藤哲郎『ゾルゲ事件 覆された神話』平凡社〈平凡社新書〉、2014年。ISBN 4582857252
ロベール・ギラン『ゾルゲの時代』中央公論社、1980年
マリヤ・コレスニコワ/ミハエル・コレスニコワ『リヒアルト・ゾルゲ 悲劇の諜報員』(中山一郎訳、朝日新聞社、1973年)
齋藤充功『昭和史発掘 幻の特務機関「ヤマ」』 新潮新書、2003年、ISBN 4106100266
「ヤマ」:ゾルゲの無線通信の解読を試みていた陸軍省軍事資料部の無線傍受機関
下斗米伸夫・NHK取材班 『国際スパイ ゾルゲの真実』 角川書店、1992年、ISBN 4048210432
角川書店(角川文庫) 1995年、ISBN 4041954010
チャルマーズ・ジョンソン、荻原実訳『尾崎・ゾルゲ事件 - その政治学的研究』弘文社、1966年。
チャルマーズ・ジョンソン 『ゾルゲ事件とは何か』 篠崎務訳、加藤哲郎解説、岩波書店〈岩波現代文庫〉、2013年。ISBN 978-4-00-603263-0。上記『尾崎・ゾルゲ事件』の増補改訂版。
白井久也・小林俊一(編)『ゾルゲはなぜ死刑にされたのか 「国際スパイ事件」の深層』社会評論社、2000年、ISBN 4784505520
白井久也(編)『国際スパイゾルゲの世界戦争と革命』社会評論社、2003年、ISBN 4784505555
白井久也(編)『【米国公文書】ゾルゲ事件資料集』社会評論社、2007年、ISBN 4784505609
白井久也『ゾルゲ事件の謎を解く 国際諜報団の内幕』社会評論社、2008年、ISBN 4784505822
F.W. ディーキン、G.R. ストーリィ『ゾルゲ追跡 リヒアルト・ゾルゲの時代と生涯』(河合秀和訳、筑摩書房、1967年)
岩波書店(岩波現代文庫)(上巻) 2003年、ISBN 4006030738
岩波書店(岩波現代文庫)(下巻) 2003年、ISBN 4006030746
ジョセフ・ニューマン『グッバイ・ジャパン - 50年目の真実』朝日新聞社、1993年
松橋忠光・大橋秀雄『ゾルゲとの約束を果たす - 真相ゾルゲ事件』オリジン出版センター、1988年
みすず書房編集部(編)『現代史資料 ゾルゲ事件』(全4巻)、みすず書房、1962年 - 1971年。
宮下弘『特高の回想 - ある時代の証言』田畑書店、1978年
山崎洋(編)『ブランコ・ヴケリッチ日本からの手紙―ポリティカ紙掲載記事(一九三三~一九四〇)』 未知谷、2007年。ISBN 4896422066
山崎淑子(編)『ブランコ・ヴケリッチ 獄中からの手紙』 未知谷、2005年 ISBN 4896421205
山村八郎(中村絹次郎)『ソ連はすべてを知つていた』 紅林社、1949年。
ロバート・ワイマント『ゾルゲ 引裂かれたスパイ』(西木正明訳、新潮社、1996年)、ISBN 4-10-532901-4
新潮文庫(上巻) 2003年、ISBN 4102003118
新潮文庫(下巻) 2003年、ISBN 4102003126
渡部富哉『偽りの烙印―伊藤律・スパイ説の崩壊』 五月書房、1993年。(1
太田尚樹『赤い諜報員 ゾルゲ、尾崎秀実、そしてスメドレー』講談社、2007年
モルガン・スポルテス著、吉田恒雄訳『ゾルゲ 破滅のフーガ』 岩波書店刊、2005年。ISBN 4000237101
戯曲[編集]
木下順二『オットーと呼ばれる日本人―他一篇』 岩波書店〈岩波文庫〉、1982年。
表題作は木下がこの事件を題材として書き下ろした戯曲
『愛は降る星のかなたに』(1956年、日活/監督:斎藤武市/出演:森雅之、山根寿子、浅丘ルリ子)
『スパイ・ゾルゲ 真珠湾前夜』(1961年、フランス&日本合作/監督:イブ・シャンピ/出演:トーマス・ホルツマン、岸惠子)
『スパイ・ゾルゲ』(2003年、日本/監督:篠田正浩/出演:イアン・グレン、本木雅弘)
漫画[編集]
手塚治虫『アドルフに告ぐ』文藝春秋社、1985年(文庫版4巻収録 第21章~第25章)
脚注[編集]
^ 山村八郎(1949)21頁
^ ゾルゲは実際にはコミンテルンではなく、労農赤軍参謀本部第4局に所属していた。
^ 白井久也編著『国際スパイ・ゾルゲの世界戦争と革命』
^ 『戦時下のドイツ大使館』P.34 エルヴィン・リッケルト 中央公論社
^ 『戦時下のドイツ大使館』P.33 エルヴィン・リッケルト 中央公論社
^ 特高資料では「9月28日」とされているが、上記「褒賞上申書」や和歌山県で北林の逮捕に立ち会った元和歌山県警刑事の証言により実際の逮捕日は9月27日であることが渡部富哉によって確認されている[1]。
^ 戦後の長期間、「伊藤律が北林の名を供述していたことが検挙の発端である」という内容が通説化していたが、現在はほぼ否定されている。詳細は伊藤の項目を参照。
^ 早崎えりな『ベルリン・東京物語』p.226-227(音楽之友社、1994年)
^ 山村八郎(1949)12-19頁
^ 山村八郎(1949)23頁
^ みすず書房編集部(編)『現代史資料 ゾルゲ事件』(全4巻)
^ 「ゾルゲ事件で獄死、画家の遺族に勲章伝達 ロシア大使館」(朝日新聞 2010年1月14日)
^ 「ゾルゲ事件、資料公開へ 取調官の遺品数千点」産経新聞、2010年3月20日
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