日文孤本4本日语翻译学鲁迅同7篇其中两本呐喊15篇全2译比较 翻译课翻译 阿Q正伝 (第一岩波文庫64开95品竹内好翻译15篇,第二角川文库9品64开增田涉译1 阿Q正传2狂人日记3故乡4一件小事5孔乙己6家鸭喜剧其它3篇, 第三日本偕成社03年大32开小田嶽夫翻译多图大字版1阿Q正传2一件小事3祝福4藤野先生5阿长与山海经6故乡其它3篇。第四部高橋高桥和巳翻译呐喊全部15篇中国公文库文庫78版
四本对译增田涉翻译处处经过书信请教鲁迅过目修改 最忠实鲁迅原文竹内好翻译功底深深层次挖掘鲁迅思想深处内涵和反映作品创作环境考察作品创作背景与作家思想,语言地道翻译语言符合日本人表达方式小田嶽夫翻译语言通俗千8浅显易懂,其鲁迅翻译被日本文部省纳入日本中学国语教材,适合大众青少年学习读物。狂人日记故乡家鸭子的喜剧阿Q正传孔乙己一件小 撰写日文的鲁迅作品日文翻译比较可以参考下列网站英语鲁迅多种译本比较
¥
458.26
2.3折
¥
1994
九品
仅1件
作者魯迅著日本竹内好译增田涉翻译小田嶽夫译高桥和巳翻译日本教材青少年读者广泛威一睹鲁迅译文风采地道准确论文研究楷模典范规范
出版社日本岩波文庫和日本角川文库日本偕成社日本中公文库专业翻译出版鲁迅译文风采地道准确论文研究楷模典范规范史料稀少翻译课教材翻译论文精典9篇断货抢手秒杀
出版时间1955-11
版次1
出版地日本国日本东京japan tokyo
印刷时间1961-04
印次91
装帧软精装
尺寸148 × 105 cm
纸张纯质纸
页数936页
字数894千字
定价1994元
正文语种日本国日文和語日本語japenese
货号64a2q456lx8525n95y55
上书时间2024-11-26
商品详情
- 品相描述:九品
-
4个日本翻译家翻译四个日本出版社出版版本对比翻译学
民族のマイナス面として典型化された「阿Q内臓を痛烈にあばきを教訓て民族的決意を促す主題を貫く。魯迅の作家的存在を文学史上に定着させた代表作。竹内好(音ますだ わたる,日本中国文学研究者,鲁迅学生,《中国小说史略》日本语译者。东京帝国大学毕业,在芥川龙之介、佐藤春夫的影响下对中国经佐藤春夫先生(先生即老师)和内山完造介绍拜鲁迅门下学习。1931年到上海,跟鲁迅先生学习中国小说史,在先生指导和帮助下将《中国小说史略》译成日本语,同时写了日文《鲁迅传》初稿,经鲁迅先生亲自改阅。1935年与佐藤先生合译《鲁迅选集》。鲁迅身后参加了日本改造社版《大鲁迅全集》
中文名 增田涉 国 籍 日本 出生地 日本 职 业 作家、翻译家 毕业院校 大学东京帝国 代表作品 《鲁迅的印象》、《杂书杂谈》等
1931年到上海,跟鲁迅先生学习中国小说史,在
- 商品描述
-
可以拆开分散零售。但是,单一分开出售价格要贵。
此次出售日本4个翻译家翻译17篇作品,有2本书15篇是鲁迅呐喊15篇全文收录。另外2本书只是鲁迅主要6篇代表作品翻译对比。鲁迅16篇作品的日文目录有
1 狂人日记
2 孔乙己
3 一件小事
4 故乡
5 阿Q正传
6 家鸭子喜剧
7 孤独者
8 藤野先生
9 眉间尺
10自序
11端午季节
12药
13明天
14白光
15头发的故事
16瞎闹
17社戏
18兔子和猫
文庫: 248ページ加208页
出版社: 岩波書店 (1955/12
)
言語: 日本語
ISBN-10: 4042204015
ISBN-13: 978-4042204015
発売日: 1961/04
商品パッケージの寸法: 14.8 x 10.
Amazon 売れ筋ランキング: 本 - 273,915位 (本の売れ筋ランキングを見る)
129位 ─ 本 > 文学・評論 > 文芸作品 > 中国文学
3379位 ─ 本 > 文庫 > 一般文庫 > 角川文庫
中学校以来、30数年ぶりに魯迅を読みました。おもしろかった! 中国文学の翻訳は、おおむね訳文がいい。漢文読みに鍛えられたせいでしょうが、本書も例外ではありません。もちろん、魯迅には駒田信二訳、竹内好訳などもそろっていますが、今回はこの増田訳を楽しむことができて幸運でした。社会に翻弄される人間を描いて、これほど鮮明な印象を与える作品はそうはありません。本書では表題作にあたる「阿Q正伝」、必ずしもよく書けた小説ではありませんが、何か、そこに賭けられたものの重さを感じさせることにかけては、ちょっと比類ない域に達しています。あえていえば、ラテン・アメリカの独裁者物小説のいくつかに比肩できるような。ここでは阿Qの処刑が首斬りではなく銃殺だったことが、歴史上の「ある一点」を感じさせますし、それはロシアの盲目の詩人エロシェンコの北京滞在を扱う「家鴨の喜劇」も、清国留学生に焦点を当てる「藤野先生」もおなじ。そして「小さな事件」の、いかにも無力なミドルクラス知識人の姿は、あらゆる社会的な礼儀作法や希望が瓦解した現代を生きるわれわれには、むしろ日常的実感をもって迫ってくるのではないでしょうか。年譜により、魯迅45歳の「第一短評雑感集」が『熱風』というタイトルだったことを知りました。どんな熱風が吹いたのか、そこには。覚めきった知識人の、希望の幻影以外に。興味深いところです。
魯迅の短篇集。表題作のほか、「狂人日記」や「眉間尺」など。エッセイみたいなのも多い。
狂人日記:世の中には「人肉食好き」がいて、彼らは獲物になる人間を自殺させたがる。主人公は人肉食反対なのだが、5歳の妹が兄に食われてしまうというグロい話。
阿Q正伝:村の最低辺に生きる阿Qは、バカにされながらも精神勝利法という思考法により想像上の勝利をすることでプライドを守りながら生きる。阿Qは、辛亥革命に便乗して騒いでいたら、投獄されてしまい、処刑されてしまう、という話。
眉間尺:古典ベース。眉間尺は父を殺した王を討とうとするが、黒色の男が「お前の首」をくれるならちゃんと仕留めてやるともちかけ、眉間尺は自殺して首を渡す。黒色の男は、手品と称して王宮に入り込み、首をつかった手品に王が夢中になっているところで王の首を落とす。すると水槽の中で王の首と眉間尺の首が噛み合いの戦いを始める。ここで黒色の男は自殺して、首になって加勢。二人で王の首に噛み付きまくるというグロい話。
毛主席が阿Q正伝を称揚したので、魯迅の名声が高まったらしいのだが、それほどおもしろい小説ではない。
魯迅の短篇集。表題作のほか、「狂人日記」や「眉間尺」など。エッセイみたいなのも多い。
狂人日記:世の中には「人肉食好き」がいて、彼らは獲物になる人間を自殺させたがる。主人公は人肉食反対なのだが、5歳の妹が兄に食われてしまうというグロい話。
阿Q正伝:村の最低辺に生きる阿Qは、バカにされながらも精神勝利法という思考法により想像上の勝利をすることでプライドを守りながら生きる。阿Qは、辛亥革命に便乗して騒いでいたら、投獄されてしまい、処刑されてしまう、という話。
眉間尺:古典ベース。眉間尺は父を殺した王を討とうとするが、黒色の男が「お前の首」をくれるならちゃんと仕留めてやるともちかけ、眉間尺は自殺して首を渡す。黒色の男は、手品と称して王宮に入り込み、首をつかった手品に王が夢中になっているところで王の首を落とす。すると水槽の中で王の首と眉間尺の首が噛み合いの戦いを始める。ここで黒色の男は自殺して、首になって加勢。二人で王の首に噛み付きまくるというグロい話。
毛润泽が阿Q正伝を称揚したので、魯迅の名声が高まったらしいのだが、それほどおもい小説ではない。
古書にしては美本であり、書籍収集マニアとした大変うれしい。訳文は訳者の人柄を表し、興味深い。
検索などをすると、阿Q正伝は中国で失敗した革命を揶揄したものだそうです。普通に読むと盗みで処刑されてしまうマヌケなかんじの男子の一生を描いています。今あんまり流行らないかもしれません。というのは、永久に近代化できずに植民地化もしくは「犬と中国人お断り」などと白人さんに書かれている俺らの中国とは何なのか憤怒ーのような内容ですが、そんなこと言っても今中国って沸騰してます、完全に時代遅れです。
魯迅は本場中国でどういう評価なのかしりませんが、そのうち文庫から抜かれたりするんではないだろうか。中国とかに興味のある人は、今のうちに10個くらい買って家に隠しておくんだ。とか思いましたが。
阿Q=ア太郎みたいな適当さとか、辮髪をしてない人のネーミングが「ニセ毛唐」なこととか、「アイヤー、中国、日本、トモダチ、トモダチ」的な人がみたら憤死しそうなギャグが入っていて決してつまらなくないと思います。そこは人によりますが。
しかしここに描かれる中国の民衆の風習はひどい。
科挙(出世欲
子供を食べること(食人
尼さんをナンパ
偉人たちの悪行とか
残酷な刑罰とか
洞窟にすんでいる狂人の話を延々としてきて、最後に「子供を救え!」書いてあるとか、シュールすぎる。20世紀に近代化にあれだけの動乱を要したことといい、闇は深かったということか、まあ、それだけ助走つけて飛躍するのでせうが。
まあ中国は昔から人が腐るほどいるので、「漢文」とかはハイソな世界で、「国破れて山河あり」とか、たぶん死体とかその辺にころがってたんだろうけど、山河しか目に入ってないのかよみたいな上から目線で、下々のことはガン無視なのが日本と違うところか。そんなハイソな知識人をシリ目に、魯迅は口語で下々のもの相手に文学をした偉い人なのだそうです。
「狂人日記」や「阿Q正伝」、「故郷」など、魯迅の代表作が数多く収録されています。各作品の登場人物を通してそれとなく、儒学を媒介とする中国の封建社会への批判をさせていることが散見されておもしろかったです。
しかしそれよりも興味深かったのは、本書の表紙に記された「吶喊」という言葉です。何かしら社会に向けて自己主張をする時に何よりも辛いのは、賛同を得られることでも、批判を受けることでもなく、何の反響も得られないことだと魯迅は語ります。そのもどかしさが抑えることの出来ない叫びとなったものが「吶喊」なのです。我々にも多かれ少なかれ、似たような経験があると思いますが、こうした魯迅の言葉には 非常に共感を覚えました。
中学校以来、30数年ぶりに魯迅を読みました。おもしろかった! 中国文学の翻訳は、おおむね訳文がいい。漢文読みに鍛えられたせいでしょうが、本書も例外ではありません。もちろん、魯迅には駒田信二訳、竹内好訳などもそろっていますが、今回はこの増田訳を楽しむことができて幸運でした。社会に翻弄される人間を描いて、これほど鮮明な印象を与える作品はそうはありません。本書では表題作にあたる「阿Q正伝」、必ずしもよく書けた小説ではありませんが、何か、そこに賭けられたものの重さを感じさせることにかけては、ちょっと比類ない域に達しています。あえていえば、ラテン・アメリカの独裁者物小説のいくつかに比肩できるような。ここでは阿Qの処刑が首斬りではなく銃殺だったことが、歴史上の「ある一点」を感じさせますし、それはロシアの盲目の詩人エロシェンコの北京滞在を扱う「家鴨の喜劇」も、清国留学生に焦点を当てる「藤野先生」もおなじ。そして「小さな事件」の、いかにも無力なミドルクラス知識人の姿は、あらゆる社会的な礼儀作法や希望が瓦解した現代を生きるわれわれには、むしろ日常的実感をもって迫ってくるのではないでしょうか。年譜により、魯迅45歳の「第一短評雑感集」が『熱風』というタイトルだったことを知りました。どんな熱風が吹いたのか、そこには。覚めきった知識人の、希望の幻影以外に。興味深いところです。
英雄でもなければ名門の出でもない。人に蔑まれいい様に使われていながら、まるで自分が高貴な出の雇い主であるかの様に自分を見事にごまかし満足するというこれ以下はないと言えるほどの卑しさを身につけた阿Q。やっと金持ちになりやっと念願の英雄になれたかと思った途端に捕縛され、衆人環視の中刑場へと引き回されながら気の利いた台詞の一つも言えやしない。ここまで救いようのない愚物を主人公にして、魯迅は何を描きたかったのだろうか。今も昔も変わらぬ中国人民の愚かしさというゴーマンは言いますまい。ただ、私達の心持ちの中にも似た様な馬鹿馬鹿しさが無いと言い切れるだろうか。登場人物は全員英雄にはほど遠い愚物ばかり、文学史上稀とも言えるこの無惨な物語が私達に語りかけるものをもっと深く知るべきである。魯迅自ら述べる様地上に元々道はなく、私達の歩いたところが道になるのだ。しかし、その先が約束の地であるという保証はどこにもないのだから。
反日デモに参加している人たちの顔がTVに映るたび、昔読んだ『阿Q正伝』を思い出す。あの薄笑い。
時代も風俗も変わったのに、魯迅があれほど嘆いた人のあり方は変わっていない。それを確認するためだけにでも、もう一度この小説を読み返すべきだろう。
読んだことがない人はぜひ手にとってみてほしい。
デモに対する印象が、かなり変わってくるはずだ。
ともに社会に適応できないはみ出し者を描いた有名な「阿Q正伝」、「狂人日記」をはじめ、優しい雰囲気の「藤野先生」、不思議な味わいの「眉間尺」などの短編が収められています。
私は、所収のもろもろの短編を通して、運命の不条理や人の残酷さを読み取りました。辛亥革命前後の激動の中国を生きた魯迅の深い悲しみ、それから自らの意見を持たず権力に迎合し、他と同じかどうかだけを判断の拠り所としている人々に対する冷ややかな嘲笑が感じられます。
現代の日本の在り方を見ていく上でも貴重なメッセージがこめられていると思います。
ある知人から薦められて読んだ。期待していた「阿Q正伝」はちょっと期待外れであった。この作品のすべては主人公阿Qの台詞「俺はとにかく子供に殴られたのだ、今頃の世の中はまるで成っちゃいねえ....」に尽きていると思う。時代や風俗が現代日本のそれとはかなり違ってきているので、この作品から切実感を感じろと言われても無理な話。翻訳もやや硬いし、割注が頻繁に入って読み辛い。結局、もはや役割を終えた文学作品なのかとも思った。併録されている「狂人日記」も発表当時はともかく今となっては陳腐な設定。先駆的作品としての意義はわかるのですが、、、。しかし「孔乙己」は小品ながら心に残る拾い物であった。
表題の二作品が、あまりにも有名であらためてコメントもいらないが、
この作品集のタイトルである「吶喊」(とっかん)という言葉が印象に残った。
一般的に「吶喊」とは、「敵陣に突入する時など大勢が一時にわめき叫ぶこと。ときの声をあげること」(広辞苑)
とされている。本書「自序」に込められた作者の意図を、ある人はこう解釈している。
「鉄の壁の部屋に閉じ込められている自分。
もはや自分自身は社会改革の担い手にはなれないが、
せめて重責に耐えて活動する革命家の精神的苦痛をやわらげるための声援を背後であげてやろう。」
そんな熱い思いが込められているとのこと。
この作品集の中の一つに「故郷」がある。
巻末解説によれば、魯迅は1919年の末に、帰郷して家を整理し、一家をあげて北京へ移住しており、
そのときの体験を加工したものであろうとされている。
この作品の最後は、こんな言葉で結ばれている。
「希望といえば、かれらは新しい生活をもたなくてはならない。私たちの経験しなかった新しい生活を。 (略)
思うに希望とは、もともとあるものともいえぬし、ないものともいえない。それは地上の道のようなものである。
もともと地上には道はない。歩く人が多くなれば、それが道になるのだ。」
この作品集から紡ぎ出されるす言葉を辿っていると、
「希望」と「寂寞」とが表裏の関係にあるように思えてくる。
ここに収録されている作品を通して、
いずれも寂寞を希望に変えていく力をもらうことのできるのではないだろうか。
魯迅最初の作品集らしい。
その書くきっかけがすでに魯迅的であり、近代中国の苦闘を表わしているのは「自序」から分かる。
「小さな出来事」「あひるの喜劇」など小品味わい深いが、やはり「故郷」「阿Q正伝」に指を屈する。
革命後の物情騒然とした時代背景について知識が不足していて理解しがたい場面多いのは辛い。
ヨーロッパと留学した日本の狭間で、中国の伝統的・因習的な民族性、その癒しがたさを見つめ、絶望的な闘いを挑んだのが「阿Q正伝」だろう。
平明な文章の底に、作者の厳しい視線が感じられて、怖い。また読もう。
現実なのか夢の中の出来事なのか。頭を押さえつけられるような、四方から圧し潰されるような、重い感じ。夢の中だとしたら、悪夢を見ているようで、気持ちがざわざわしてきます。作りものではない、生の人間の姿だからでしょうか。
先日中国語版を読みましたが、日本語訳を読みたくて購入しました。ちなみに、表紙の絵はとてもいいと思います。
魯迅は多作な作家ではない。
但し、残しているものは、どれも珠玉の名作といえる。
この代表作は是非吟味して読み込みたい一冊である。
『故郷』が何よりも印象的でした。
別れを告げるため20年ぶりに故郷を訪れ、そこで筆者が目撃した、時代により見るも無残に変わり果ててしまった寂寞な山村や人々の様子を、幼少期の回想を交えながら綴った作品です。とりわけ、筆者が幼い頃よく一緒に遊んだ仲の閏土(ルント−)と久々の再開を果たす場面は、ひと際私たちの心を打つものがあります。「神秘の宝庫」の心を持った閏土からいろいろなことを教わりながら、分け隔てなくお互いに接していた幼少期の「過去」。しかし数十年ぶりに再開し、あの時のように「ああ閏ちゃん―――よく来たね」と呼びかけるも、「旦那さま!…」と、どこか他人行儀に返されてしまう「今」という現実。
昔は久しい間柄だった二人の間に、時が経ち、いつの間にか見えない“隔たり”ができてしまった…、このような経験は、誰だって一度はしたことがあるものではないでしょうか。私はこういう事は何度か経験したので、魯迅が感じたどこかやるせない気持ちは切ないほどに共感できました。
魯迅はJ.ジョイスのダブリナーズを読んでいたのだろうか?
ダブリナーズが世に出たのは1915年。
一方で、この本に収められた短編のうち最初となる「狂人日記」発表は1918年。
ダブリナーズは短編15編から成り、幼年、思春期、成人、老年といったあらゆる階層のダブリン人を題材とし、
人間の欲望や宗教観など、目に見えない人それぞれの精神的な内面について、
ダブリン人の日常から切り取り抽象化することで普遍性を描き出そうと試みている。
ジョイスがダブリン人に執着したのは、その底流にダブリン人共通の「パラリシス=知的麻痺」から発散される
「腐敗の特殊な臭い」を見出したからだという。
だがジョイスはダブリン人から湧き上がるような鬱々さだけを描きたかったのではない。
彼が「エピファニー」と言うところの「言葉や所作が俗悪であっても、その中から突然姿を見せる精神的顕示」に注目し、
「美の最高の特質を見出すのは、まさにこのエピファニーにある」と述べている。
一方で、魯迅のこの短編集の多くは、辛亥革命前後の中国民衆の日常的風景が題材にされ、
纏足、辮髪、科挙といった旧弊の悪習をはじめとして、
民衆の迷信、我欲、現状への盲従などの否定的要素がこれでもかと書かれている。
序文で魯迅は、中国人民の文化的覚醒の必要性を痛切に感じ、この作品集を出したというが、
あまりに文化的に停滞した人民の姿(つまり目をそむけたい人間の陰の部分)が次々と出てくるため、
「故郷」を読みたくてこの本を手にした人の多くを戸惑わせ、魯迅不信に陥らせるのではと心配さえしてしまう。
中国の精神上の進歩を目指すという序文での強い意志と、民衆のありのままの、ある意味下卑た面の描写と、
どちらが魯迅の“本心”かを図りかねていたが、
「屈折に満ちた文学」という文字をある時目にして、腑に落ちた。
きれい事や説教じみた、文学的に“整った”作品なら、作家自身はそれで満足なんだろうけど、
そんな“お高い”作品が、清濁相持つすべての人心の進歩をもたらすなんて簡単にいくと思えない。
そう考えると魯迅の一連の作品は、まるで一見泥だらけの中国人の精神の中に手を突っ込み、
そこに埋もれて見えない光源を取り出そうとしているように思える。
泥を探って光を掘り出すには、自らが泥にまみれる覚悟がないとできない。
魯迅の泥臭いとも思える作品群は、見た目からも魯迅の心情面からも、屈折という言葉が言い得ている。
しかしいくら魯迅が光を抽出しても、読む側が光を光と感じられるだけの“心の鏡”を磨くこと、
つまり、真実に対して謙虚で、
その社会における常識と、新しい目、世界から見た常識が交錯し、常に相容れずに結末を迎えている。
— 没有更多了 —
以下为对购买帮助不大的评价