:赤頭巾ちゃん気をつけて 日文芥川賞受賞作品 庄司薫著:中央公論新社出版75版 64开159页第61回芥川賞受賞知性東大入試中止既成秩序崩壊大衆社会騒乱中有静言葉原点青春文学不朽名作本名福田章二畅销
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作者 日文庄司薫著第61回芥川賞受賞知性東大入試中止既成秩序崩壊大衆社会騒乱中有静言葉原点青春文学不朽名作本名福田章二畅销
出版社 日本:中央公論新社出版知性東大入試中止既成秩序崩壊大衆社会騒乱中有静言葉原点青春文学不朽名作本名福田章二畅销
出版时间 1974-06
版次 1
印刷时间 1974-06
印次 1
印数 3千册
装帧 软精装
页数 159页
字数 200千字
定价 97.63元
货号 B009083
上书时间 2024-10-25
商品详情
品相描述:八五品
日文 1毛辺本2 有外表图书护衣但有圧折和摩耗 一本单独出售 78版 庄司薫:赤頭巾ちゃん気をつけて (中公文庫) 日文原版书 日语原版书 作 者:庄司薫 出 版 社:中央公論新社 1978 出版时间:1978 印刷时间:1978 印 数: 装 订: 版 次:中央公論新社 1978 开 本:64开 页 数:159页 字 数: 品 相:八五品 详细描述:文庫:159ページ 出版社:中央公論新社 1973初版 1978第20版 言語:日本語 ISBN-10: ISBN-13: 発売日:1973 商品の寸法:15.2 x 10.6 x 0.8 cm 本>文学 評論 ----------------------------- 受賞歴 第61回(昭和44年度上半期) 芥川賞受賞
商品描述
日文 芥川賞受賞 文庫: 177ページ 出版社: 中央公論新社; 改版 (2002/10/10) 言語: 日本語 ISBN-10: 4122041007 ISBN-13: 978-4122041004 発売日: 2002/10/10 商品パッケージの寸法: 15 x 10.6 x 1 cm おすすめ度: 5つ星のうち 4.2 51件のカスタマーレビュー Amazon 売れ筋ランキング: 本 - 341,941位 (本の売れ筋ランキングを見る) 495位 ─ 本 > 文学・評論 > 文学賞受賞作家 > 芥川賞 > 51-75回 762位 ─ 本 > 文学・評論 > 文芸作品 > 日本文学 > さ行の著者 1569位 ─ 本 > 文庫 > 一般文庫 > 中公文庫もう30年以上が過ぎてしまったのですね、この「赤頭巾ちゃん~」が出版されてから。 日本中を揺るがせた大学紛争、高校生までも巻き込んだ学生運動を歴史的背景として持つこの作品は、そういった激動の社会や若者の無軌道なパワーをしっかりと捕らえておきながら、その主題はあくまでも優しく、優しさだけで良いのだろうか?となんとなく自分を見つめていく主人公「僕」の日常の生活や、悩める青春像に置かれている。 優しくほのぼのとした文体で、「僕」とガールフレンドの由美のやりとりが描かれており、とても爽やかな気持ちにさせられるのだが、読み終わった後に「あぁ楽しかった」だけでは済まされないような、一種の切なさ、やりきれなさ、未消化な気持ちを感じてしまう。 その未消化な悶々としたパワーの正体は、4部作を通して読み進むうちに、流されている自分や、やり残した事への軽い後悔の念であることがわかってくる。 30年前に読んだときには、主人公の年代に達していなかった私にはわからなかった。 数年後、主人公の年代に達した頃に読んだときには、自分も何かをやらなければという、焦りを感じた。 80年代に入ってから読んだときには、もう戻ることの出来ない過ぎた日への感傷が残った。 不惑の歳を過ぎた今、この作品は何を与えてくれるのだろう? 好きな作品として、真っ先にこのシリーズ名を挙げてしまう、本当に私の人生の愛読書です。 ちなみに庄司氏が、この作品(シリーズ)の主人公の言葉を借りて、作中に何度か出てくるピアニストの中村紘子と、後年本当に結婚してしまった事は有名な話。前半というか七、八割方までは、何が良いのかよく分からなかったが、最後まで来てようやく読む価値があったと思えた。「ライ麦」と比べる向きもあるが、ホールデン好きとしては、その様な安直な比較には憤りすら感じる。今の若者がこれを読んでどう感じるのかは知らないが、何やら古市君に通じるものがあるんじゃないかと安直に比較してみる。私が今までに読んだ芥川賞受賞作のなかでは、本作が群を抜いて一番おもしろい。 もちろんラストもいいのだが、薫くんと東大生のお兄さんとのやり取りが感動的である。 エリートの矜持、それはいまや誰もが忘れてしまったものなのかもしれない。 ストーリー展開がいい。主人公が大きな決心をするところがすばらしい。 なんか泣けた。是非読んでみて下さい。 あの時代あの頃の僕の世界をも蘇らせてくれるこの本が、この値段で入手できるということだけで、満足度は高い 私には読み進めるのに時間がかかりました。全然次のページが気にならない。気が進まない。途中でなんども別の本を挟みながらやっと読み終えた。最後まで読んでみると、そういう事ね。と思ったが、やはりなにも残らない。 かなり面白いので、一度読んだほうがいい・・みたいな事が書かれていました。 試しに購入しましたが、なるほど! これは読んでみて正解です。 「隠れ左翼の草分けである。」というレビューがあまりにおもしろかったので、ちょっと触発されて書きます。 著者庄司薫は1969年本作で芥川賞をもらって一躍有名作家になり、この作品をシリーズ化して「赤」、「白」、「黒」、「青」の四色連作を企てた。はじめのうちは快調に書いて発表していったものの、「青」が難航。出たのは77年。これだけはなけなしの小遣いをはたいてハードカバーで買ったけど、汚濁の世界で右往左往するピュアな心の若者という設定がなくなってしまっていて、これでは連作とはいえないと思った。たぶんこのときすでに行き詰っていたのだと思う。「青」を最後に、筆を折ってしまっている。 庄司薫は「和製サリンジャー」などといわれて、野崎訳「ライ麦畑」の文体をそのまままねたなどと批判された。たしかこの人はそれ以前の作品がえらく深刻で神経質な文体で、それがいきなりこのようなおちゃらけた口調に変わってしまったものだから、意図的な大衆迎合を疑われたのだろう。本家サリンジャーも同時代の若者の俗っぽい口調をまねているのだが、その背景には高まり行く東西冷戦の緊張があり、頑強な保守派の反共主義があり、リベラル派の無気力があり、ドラッグや同性愛にしか逃げ場を見出せない閉塞状況があった。一方この作品が発表された69年、日本では全共闘運動で騒然とはしていたものの、高度経済成長の結果、都市に中間層ができて、因襲的道徳を気にしない、西欧的な自由主義社会が実現しつつあった。なによりこの小説にえがかれている若者の自由な性がそれを証している。時代の「閉塞感」など望むべくもなかった。結果的に状況の違いを無視して文体だけを移植してしまったのだから、ものまね呼ばわりされるのもしかたがないといえる。 この作品はけっきょく同時代の若者風俗が共感される作品として残った。芥川賞をもらったときには三島由紀夫の強い支持があったという。三島には「夏子の冒険」などのような風俗小説があり、その効用も認識していたので、この作品をサリンジャーの亜流としてではなく、風俗小説の佳作として推薦したのだと思う。風俗小説にはそれなりの文学的価値があるのである。いまとなっては三島のほうが正しかったのだろう。サリンジャーを意識した文体も、ある意味では今日のライトノベルにつながるような文体だといえる。 この作品を石原慎太郎の「太陽の季節」と村上春樹の「風の歌を聴け」のあいだに置くと、その歴史的位置がはっきりすると思う。あまり指摘されることはないが、「太陽の季節」はフランス実存主義思想の通俗的な理解の上に書かれていて、いま読んでみるとけっこう噴飯ものである。あの殺伐とした恋愛風景が、米ソの緊張緩和の後では「赤頭巾ちゃん気をつけて」になるのだから、変われば変わるものだ。これが村上春樹になると何か大切なものが抜け落ちてしまっていて、その喪失感が主要テーマとなる。 いずれの作家にもいえることだが、自分のテーマを書きつくしてしまうと、あとはただの風俗描写のくり返しになってしまった(風俗小説は英語でnovel of manners。マンネリズムにおちいりやすいのは当然)。石原慎太郎はけっきょく作家業にあきて政治家になったが、村上春樹はいまだに中身のない作品を書き続けている。そこにえがかれるのは、もはや風俗とすらいえないものに成り果てているにもかかわらず。 庄司薫もあのまま続けていたら、内容のない、どうでもいい小説をだらだらと書き続ける作家になっていたことだろう。 作品自体は、気負いのないやさしい文体で、著者の本質的な善意が前面に現れて、いやみのないいい作品に仕上がっています。4部作のどれか一つを読むのなら、この作品を読むべきで、一番よくできていると思う。 芥川賞獲得に向けた意気込みが感じられる。「庄司薫」はこの作品のために名乗った。物語の主人公の名前である。しかし、都立日比谷高校は実在する学校なので誤解されないように、あとがきで庄司薫は架空の人物であると念を押している。 文体を変えたことも受賞当時話題になった。サリンジャーの「ライ麦畑でつかまえて」の翻訳文体と酷似していると指摘された。ヒントにしたことは間違いないだろう。いろんな仕掛けを取り込んで確かな獲得に向けて策を練ったのだろう。 東大安田講堂攻防戦で入試が中止になった2年(くらい?)後に発表されたものなので、東大受験(予定)生を主人公にしたということが決定的な作戦である。 作者自身は当時東大法学部の三年生だったという。自身が省庁や司法試験の受験を前にしてそれを放棄する動機を主人公に重ねたのではないだろうか。自身も東大受験生だったので、ある意味、主人を構築するのはやりやすかったのではないだろうか。 話題性だけで芥川賞は取れないだろう。内容もまた、恐れ入るほどの頭のよさを描き出している。私は文藝春秋で本作品を高校二年生で、つまり作者が同世代だと思って読んでしまって、つくづく自分は能力も学力も低いんだ、と思ったものだ。今回、あとがきを読んでみると、読者諸氏は「お兄さんに手伝ってもらったのでは?」と思ったのではないか、というように書いていて、安心させてくれていることを知ったが、私はその時は気づかなかった。 中公文庫の解説は佐伯彰一が書いているといい、芥川賞の選考で三島は絶賛したといい、文体はくだけていても、彼らと同じ穴のムジナだ。東大系の秀才で、中流以上の家庭で育ち、保守的な性向を持っている。三島も佐伯も本作品を読んで快哉を叫んだのではないだろうか。 三島も、作家の庄司薫も東大・公僕の流れを押しつけられ、どちらも自分の意志で小説家の道に転向した。 作中の薫くんはとってもツキが悪かった。いろんなツキのなさが重なったが、とりわけ家の廊下においてあったスキーのストックの先端で左足の親指のツメを剥がしてしまったことと、東大入試が中止になったことが大きい。中止になったことそのことよりも、そのおかげで騒ぐ世間様の、現代の言葉でいえば「ウザさ」が負担になる。 世間様が作り上げたといえるような薫くんの性格は、素直で温厚。でも、ナーバスになって、性格を豹変させるところが出てくる。とはいえ、頭の中だけでのことだ。 それを救ってくれたのが、梶井基次郎の「檸檬」を連想するのだが、銀座の旭屋書店前で出会った幼女だ。彼女は赤頭巾ちゃんの本を買うことになっていた。いまとなってはとても危険な行為だが、手をつないで書店まで向かう。書店では、いろんなバージョンの赤頭巾ちゃんがあるのだが、適切な本を選んであげて通りに出て分かれる。それを機に彼は自分がじつは「ついていたんだ」と気づく。幼女がナーバスな心を吹き飛ばしてくれた檸檬的存在だったのだ。 薫くんはゲバ棒学生たちに同情していると見せかけて、じつは辛らつに批判している。振り返ってみれば、日比谷高校の校風にもひどく批判的だ。素直でおりこうな薫くんの内心はじつはひどくドロドロしていたのだ。ゲバルト学生たちのほうがよほと素直だということが分かるように書かれている。赤頭巾ちゃんに代わって、やはり幼友達の由美ちゃんが今後、彼の心を清涼にしてくれることになるのだろうか。 思い出したが、1971年だったかNHKテレビでドラマ化されたとき、由美ちゃんの役は 仁科亜季子(当時、明子)だった。乳がん撲滅キャンペーンではすっかり落ち着いた女性になっているが、それでも当時の面影が見え隠れする。 前半というか七、八割方までは、何が良いのかよく分からなかったが、最後まで来てようやく読む価値があったと思えた。「ライ麦」と比べる向きもあるが、ホールデン好きとしては、その様な安直な比較には憤りすら感じる。今の若者がこれを読んでどう感じるのかは知らないが、何やら古市君に通じるものがあるんじゃないかと安直に比較してみる。 前半のハイライト、美しい女医とのかかわりは非現実の度が過ぎる。好意を持つ相手の傍で居眠りする女性はいない。逆に元気になるのであってそうでなければ人類は滅びる。加えて女医の裸体をじっくり眺めて興奮する主人公も「踏み切れない純粋さ」ではない。少年は思わず目をそむけるものだ。居眠りしてしまう・見て楽しむのはお互いに飽いた不能の老人と若妻の世界、つまり妄想である。リアルなのは最後にとってつけた「好きです、あなたが」というやりとりだけ。この部分ぐらいは作者にも経験があるらしい。 作者は「みんなを幸福にする方法」として法哲学を引っ張り出し、碧海純一(?)らしき教授と学生のさわやかな会話を描く。これまた非現実の世界であって、こんな会話にエリート意識がなかったら嘘だ。そして現実にはエリートの知性は飛翔するかわりにすぐに腐敗する。カール・ポパーの進歩主義ですら、大衆を見下すネタになる。しかし作者はそこをスルーして飛翔を妄想する。 読み終わって主人公の「しなやかな決意」がその後どうなったかうすうす想像はつく。「大学に行かずに自分でやってみる」決意とは、所詮「青春の熱い血の騒ぎや欲求不満の代償」という言い訳や挫折から解放されていない。やがて知性を飛翔させるために楽々と東大法学部に進学し、ゼミに加わり、知性を飛翔させた先輩のいる大蔵省に入るのではないか?しかしそこで待っているのは「ノーパンしゃぶしゃぶ」の世界だ。そしてこの主人公にそれを断るガッツはない。 かくてこの物語は主人公(つまり作者)の妄想に始まり、主人公(そして作者) 高校1年生の時に、大学を出て間もない若い女の国語の先生から勧められました。 私の高一は、1969年、ちょうど初版の発行年です。 同年に「さよなら怪傑黒頭巾」、高三の時に「白鳥の歌なんで聞こえない」と続きました。 軽やかな会話体で、とても共感したのを覚えています。 でも、一文一文が長く、とても難しく感じたのも事実です。 初めて読んだ一般向けの本だったかもしれません。 ビニールカバーの下に、次の帯。 「女の子にもマケズ、ゲバルトにもマケズ、男の子いかにいくべきか。 さまよえる現代の若者を爽やかに描く新しい文学の登場!」 そして、三島由紀夫の紙の帯。 「庄司薫氏の『赤頭巾ちゃん気をつけて』は、才能に溢れた作品で、深沢七郎氏の名作『東京のプリンスたち』を思はせる。 過剰な言葉がおのづから少年期の肉体的過剰を暗示し、自意識がおのづからペーソスとユーモアを呼び、一見濫費の如く見える才能が、実はきはめて冷静計画的に駆使されてゐるのがわかる。 『若さは一つの困惑なのだ』といふことを全身で訴へてゐる点で、少しもムダのない小説といふべきだらう。」 いて肯定と否定を繰り返す分裂的な文章は、主人公である薫くんの苦悩を如実に表している。 ところで、この独特な文体が村上春樹のそれに似ているという指摘があるが、それは実に表面的な見方に終始しているように思う。確かにどちらも柔らかな文体ではあるが、庄司薫の文体は奔放であり、村上春樹の文体はスマートである。同じ言葉を繰り返したり、世俗的な言葉を使ったりということは村上春樹の文章にはほとんど見受けられない。両者に共通するのは、閉鎖的だった文学界に風穴を開け、新たな空気を送り込んだという点であろう。すなわち、簡単な言葉で難しい事柄を語るということである。両者とも文章自体は読みやすいが、描かれているテーマはとても深い。難解な物事を難解な言葉で語る必要はないということなのだろう。サングラスをかけて豆本を読むことが不可能であるのと同じように。 さて、ここから作品中の印象的な部分について触れていこうと思う。以下の文章はあくまでも私見に過ぎないが、読解の一助になれば幸いである。 まずは薫くんの足の怪我についてだが、この怪我は愛犬のドンの死を知ったときに負ったものである。おそらく作者は、愛犬の死という心の怪我を、足の爪を剥すという肉体的な怪我に転換したのではあるまいか。心の怪我を負うことで生まれる周囲とのずれを視覚的に描こうとしたのではあるまいか。これは私事ではあるが、つい先日、自分も薫くんと同様に足を痛め、一週間ばかり足を引きずって生活することがあったのだが、すると自分だけ周囲とは別の世界にいるかのような気分になるのだ。周囲の人々とは違う速度で歩くことで(周囲の人々とは違う精神状態にあることで)、薫くんは深い深い内省の世界へと入っていく。 次に、女医との場面について触れてみようと思う。この場面で不可解なのは、薫くんの「好きです、あなたが」という台詞だ。最初に読んだときはただ単に女医の色気にやられてしまい、思わずこんな台詞を口走ったのかと思ったが、読み込むにつれ印象が変わってきた。 この作品の中盤に小林との対話が出てくる。時代の流れに翻弄され、挫折する小林であったが、彼を慰めるために薫くんは「お前は疲れているんだよ」と言う。すなわちそれは「疲れているから悩んでいるんだ。疲れがとれればこんな悩みはなくなってしまうさ。要するに一時の悩みに過ぎないんだ」という意味であると考えられる。そして、この言葉を聞いた小林は何とか立ち直ることができ、元の自分を取り戻す。 上記のように、薫くんは相手の心情を察し、適切な言葉を与えることのできる頭の良さを持っている。それは女医との場面でも同様だ。この場面の後に、電車内で泣いている女性と女医を重ね合わせるくだりが出てくるが、おそらく薫くんはこの女医に何か悲しい出来事があったのだろうと考えたのではないだろうか。例えばこんなふうに。 「下着を身に着けず白衣を羽織るなんて性的に倒錯している。もしかすると彼女は性的なことで深い傷を負ったのかもしれない。恋人とひどい別れ方をしたのかもしれない。きっと彼女は慰めてほしいのだ。自分を肯定してほしいのだ。どこかの男が彼女を深く傷つけたのだとしたら、彼女を救ってやるのも男でなくてはならない。彼女がほぼ裸でいるのはそのような心理の表れなのだろう」 そして薫くんは言葉を発する。「頑張ってください」でも「元気出してください」でもなく、「好きです、あなたが」と。そのような言葉によって、薫くんは彼女を性的に肯定してあげようと思ったのではないだろうか。 小林との場面で出てくるブレヒトの『異端者の外套』の話についてだが、これはきっと薫くんの身辺状況を表しているのだろう。この話に出てくるブルーノは形而上的な悩みに苦悶しながらも、仕立代を請求するおかみさんに精一杯の手をつくす。薫くんも様々な問題について悩みながらも、女中には笑いかけてやり、道で出会った教育ママの話を最後まで聞いてやる。彼には「自分の悩みは高尚であり、他の人間の悩みは低俗だ」というような差別意識がないのだ。「仕立代の回収に奔走しなければならないほど生活が逼迫しているのだろう」とブルーノが想像力を働かせておかみさんを思いやるように、薫くんもまた想像力を働かせ、自分とは違う種類の悩みを抱えているであろう女中や教育ママを思いやり、いささかうんざりとしながらも真摯に対応してあげるのだろう。 薫くんの言葉によってすっかり回復した小林であったが、代わりに今度は薫くんがこの悩みを引き受けることとなる。慰めとはまやかしである。悩みを抱えている人間に対し「大丈夫だよ」「何とかなるよ」と言って慰めるのは、具体的な解決法が思い浮かんでいないからである。「大丈夫だよ」「何とかなるよ」といった漠然とした言葉の裏側には、「自分にはどうやって解決すればいいのか分からないけれど」という心情が潜んでいる。 足を引きずりながら銀座の街を歩く薫くんであったが、人々は薫くんなどお構いなしに、思い思いの速度で歩き続ける。人々は彼の足の怪我に気づかず、何の配慮もしない。自分のことしか考えていないのだ。そのような人々を目の当たりにし、薫くんは強い憎悪を抱く。きっと彼はこんなふうに考えたのではないだろうか。 「自分はこれほどまでに他者を気遣って行動してきたというのに、彼らは好き勝手に行動し、それこそイナゴの大群のように怪我をしている自分にぶつかってくる。これまで他者を気遣ってきた自分は何だったんだ。このような愚かな人々のために、自分は心を擦り減らしてきたというのか……」 彼は世間に、世界に裏切られたと感じたのだろう。そして彼の憎悪は最高潮に達し、ついには殺人を夢想するまでになる。 少しばかり話は逸れるが、ここで悪についての私見を述べたいと思う。一般的な考えとしては、悪を生み出すのは悪意とされているが、個人的にはむしろ逆なのではないかと思う。自らの内に潜む悪意に気付き、それを意識すればするほど、悪意が行為として現れることに強い恐怖を感じるのではないだろうか。そしてその結果、強い自制が働き、自らの内に潜む悪意を打ち消そうとするかのように、他者に対して親切に行動するよう心掛けるのではないだろうか。自分は異常者だと自覚しているにも関わらず、行為自体は優等生である薫くんのように。 悪の源泉となるのは、悪意ではなく鈍さである。相手がどう思うかを考えず、流行っているからという理由で軽々しく「ケーコートー」なんて言葉を使ったり、相手がうんざりするような話題を延々と話し続けたりする「鈍さ」こそが悪を生み出すのである。そしてその鈍さゆえ、自分が悪を生み出したという事実に気付かないのである。 街中で薫くんは何者かに思いっきり足を踏まれる。その「何者か」の正体は、実際は小さな女の子だが、足を踏まれた時点では薫くんはそのことに気付いていない。おそらく彼は、自分のことしか考えない、街中の鈍い人間の群れに攻撃されたと考えたのではないだろうか。「女性セブン」の広告がここで強調されるのは、女性セブンという意味不明なタイトルの雑誌を購入し、ゴシップを読んで空騒ぎする、思考停止した人々を意味しているのだろう。 満身創痍の薫くんであったが、街中で出会った女の子に彼は救われる。この女の子は、小説のタイトルにある「赤頭巾ちゃん」だと考えていいだろう。別れ際、薫くんは女の子に向かって「気をつけて!」と叫ぶが、女の子もまた薫くんに「あなたも気をつけて!」と叫ぶ。薫くんも女の子と同様、狼を恐れる赤頭巾ちゃんなのだ。母親に構ってもらえず街中を一人で歩く女の子のように、薫くんもまた時代というとてつもなく大きな代物に呑み込まれながらも、それでも何とかして生き抜こうとしている。この後の場面で、由美はお気に入りのスカーフで頭を包んで散歩するが、その姿は赤頭巾ちゃんに瓜二つである。由美もまた赤頭巾ちゃんなのである。そして、きっとまた小林も赤頭巾ちゃんなのであろう。彼らは時代という名の狼に翻弄されながらも、知恵を絞り、それぞれの幸福を求めて何とか生き抜こうとしているのだ。狼のお腹の中からニコニコして出てくる赤頭巾ちゃんのように。 散歩している時点で、薫と由美は絶交の状態にある。最初、由美がそっけない態度をとっているのはそのためだ。しかし薫くんの話を聞き、彼に重要な出来事が起こったことを知った由美は、何気なく彼のほうへと手を差し出す。それは彼女なりの、とてもひっそりとした優しさだ。そして薫くんはその手を握り、二人は静かに歩いて行く。まるで二人にしか分からない言葉の意味を確かめ合うかのように。 そして彼は決意する。海のような、山のような男になろうと。 「たとえば知性というものは、すごく自由でしなやかで、どこまでもどこまでものびやかに豊かに広がっていくもので、そしてとんだりはねたりふざけたり突進したり立ちどまったり、でも結局はなにか大きな大きなやさしさみたいなもの、そしてそのやさしさを支える限りない強さみたいなものを目指していくものじゃないか」 「それと同時に僕がしみじみと感じたのは、知性というものは、ただ自分だけではなく他の人たちをも自由にのびやかに豊かにするようなものだというようなことだった」
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