清末1907年日本京都人河本掬月寄辻松乔(日本芸艸堂版《染织大鉴》编著者)明信片实寄封一通,背面有手绘和服女子图,绘画左下角写有“米”字记号,背面右下角印有“洛阳(京都别称)叶书(叶书即明信片)会交换纪念”,画为写“米”字者应河本掬月之请而画。绘画人似为日本著名画家久保田米斋(1874~1937),久保田米斋是日本京都画坛重镇久保田米仙之子。
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八品
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作者河本掬月
年代光绪三十三年 (丁未1907)
页数1页
上书时间2024-12-25
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久保田 米斎(くぼた べいさい、明治7年(1874年)8月18日‐昭和12年(1937年)2月14日)は明治時代から昭和時代にかけての日本画家。
来歴
明治7年8月18日、日本画家の久保田米僊の長男として京都府に生まれる。通称は米太郎。世音、米斎、満明、米所などと号した。国民新聞記者となった父とともに上京、始めは原田直次郎に師事して西洋画を学んだ後、橋本雅邦について日本画を習得した。
明治29年(1896年)に日本絵画協会が設立されると実弟の金僊とともにこれに参加、同年の第1回絵画共進会(第3部)に「心機一転」を出品すると二等褒状を受け、明治30年(1897年)春の第2回絵画共進会に「道元和尚」を出品、同年秋の第3回絵画共進会に「晩秋の池」、「稚足媛」を出品、後者が二等褒状を受ける。明治31年(1898年)春の第4回絵画共進会にも「佐保姫」を出品している。その一方、明治29年設立の巽画会、明治31年創立の日本画会にも関係した。また米斎は多趣味な風流人で、演劇や浮世絵などの造詣も深く松竹に入社、舞台装置家としても活躍している。各デパートの呉服部の衣装図案を担当しており、晩年には荏原区中延の自邸に故実研究所を設立、研究を続けた。昭和12年2月14日、64歳で没した。
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