日文发票孤本论文文献 原始仏教の思想〈下卷〉原始仏教4 (中村元選集第14卷) 函套好品78年 中村元著)春秋社版好品日英索引文献数百册据欧美史料整理日宗教研究权威鼻子系列23卷作中国藏传地位有述
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作者日本中村元著 东京大学宗教鼻祖選集第14卷) 函套好品1978年好品日英索引文献数百册据欧美史料整理日宗教研究权威
出版社日本春秋社版好品日英索引文献数百册据欧美史料整理日宗教研究权威鼻子系列23卷作中国藏传地位有述
出版时间1978-02
印刷时间1978-02
印数2千册
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日孤本学术论文文献 原始仏教の思想〈下卷〉原始仏教4 (中村元選集第14卷) 函套好品1978年 中村元著)春秋社版好品日英索引文献数百册据欧美史料整理日宗教研究权威鼻子系列23卷作中国藏传地位有述
著者独自の原典批判的研究にもとづき、古い資料によって、最初期の仏教の思想を探求。体系化される以前の素朴な教えは、ブッダの根本精神をそのまま反映したものである。
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雑然とした思想の断片が精緻な体系へと発展していく。意外な発見に満ちたその経過を原典批判研究によって明らかにする。仏教思想体系化への歩み。
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日孤本学术论文文献 原始仏教の思想〈下卷〉原始仏教4 (中村元選集第14卷) 函套好品1978年 中村元著)春秋社版好品日英索引文献数百册据欧美史料整理日宗教研究权威鼻子系列23卷作中国藏传地位有述
単行本: 494ペる石窟寺院が建造されており、こ屠経を口授したことにより、中国に仏教が伝わった始といいます。すなわち、紀元1世紀には中国に仏教を伝える貢献をしたのです。アショカ王の子供であるマヒナンダはセイロンに上座部の仏教を伝え、今日に至っています。11世紀にセイロンからビルマ・タイ・カンボジアに伝わり、今日の南方仏教に至っています。南方仏教は原始仏教の原点である戒律を守ることが特徴です。
カニシカ王のこのころの仏教は蒐集された仏説を「法の研究」という意味をもつアビダルマ仏教として体系的に研究がなされていました。これを「分別」といい、アビダルマ論議とよんでいます。また、後の大乗と比較して有部を「我空法有」といい、大乗を「我空法空」として区別されます。アシュヴァゴーシャ(馬鳴)は140年に『仏所行讃』『金剛針論』などを著しています。
さて、仏教は現在のアフガニスタンのバーミヤンからパキスタンのガンダーラ地方にあたる西北インドに進出してからは、仏教は教えの内容が小乗から大乗へ移っていきます。それまで発展してきた仏伝文学・仏塔信仰・部派仏教を源流として思索されたものです。これは、修行の目的が個人の満足から、大衆の救済に変わっていくことで、自分の得脱や利益ばかりを考えて修行していた阿羅漢の理想から、他の人の利益を考える自利利他への行動に重きをおくように進展したといえます。菩薩の観念もそれまでの当来作仏の決定した菩薩ではなく、凡夫の「発菩萨心」に認めるようになり、六波羅蜜の修行を説くようになりました。このように大乗仏教は、これまでの小乗といわれる声聞・縁覚に菩薩思想が組み合わさって発展します。このようななかに釈尊の燃灯授記の仏陀観や後の悉有仏性に発展する思想があったのです。
初期大乗経典が成立したのは60年ころから200年ころの間といいます。大乗の経典は成立の年代を初期・中期・後期にわけられています。初期大乗経典としてもっとも古いのが『般若経』600巻で「空の智慧」を説いています。この空の思想が大乗の教えに強く影響しています。つぎに『華厳経』(『大方広仏華厳経』)が古く、仏陀の姿があらゆる功徳に満ちた姿を華鬘に宝飾されたとして、「仏華厳」と説いたことに原点があります。これが毘盧遮那仏の世界といいます。また、仏陀の成仏を菩薩の因行で説く十地が深化して説いており、最後の「入法界品」にみられるように善財童子の弘法の物語によって法界に証入していくことが説かれています。
また、『法華経』(『妙法蓮華経』)があります。このなかに開三顕一の一乗思想と、釈尊が久遠実成の仏であることを説く開迹顕本が説かれています。『法華経は』紀元前1世紀から2世紀ころ(竺法護が286年に漢訳している)に成立し、大乗経典のなかでも仏陀の衆生救済の慈悲を説く教えとして最も重要とされました。
ほかに、『華厳経』と阿弥陀仏(アミターユス)の名号を唱えれば救われるという、易行道を説いた『無量寿経』などがあります。
中期大乗経典が成立したのは200年から400年の間といいます。『理深密経』がこのころにでき、大乗の『涅槃経』『勝鬘経』が成立し、『阿毘達磨大毘婆沙論』200巻が集大成されました。こののち、阿毘達磨の研究が盛んになっていきます。
のちに、これらの経典の思想が組織づけられたのが中観思想と唯識思想です。これらの主要な大乗経が成立するころにに出生し、大乗経の教えを理論的に組織したといわれるのが南インドのナーガールジュナ(竜樹150~250年ころ)で、中観思想はこの竜樹の『中論』に論じた空の思想をいい、『中論』は大乗仏教の基礎となる著述です。空とは虚無という意味ではなく固有性をもたないということで、空・仮・中道として縁起説を論じました。
竜樹はほかに『十二門論』『大智度論』『十住毘婆沙論者』を著しています。『大智度論』は『大品般若経』を注釈して著したもので、『十住毘婆沙論者』は華厳の『十地経』を注釈して著したものです。ここでは敗壊の菩薩にたいして阿弥陀仏の他力易行道を示しており、浄土教の最初の理論書といわれています。竜樹の仏陀観は生身と法身の二身を示し、阿弥陀仏や毘盧遮那仏を法身・法性身としています。
竜樹の著述に如来蔵系統と唯識系統の経典が引用されていないことから、如来蔵系統と唯識系統の経典は、竜樹以後の成立と考えられています。
この竜樹の空の教えを受け継いだのがアーリヤデーヴア(聖撒婆170~270年頃)で、『四百論』『百論』を著しています。聖撒婆は空の論理を説いて外道と対立し、そのために殺されたといいます。弟子にラーフラパドラ(羅睺羅跋陀羅200~300年頃)がおり、詩偈の著述が残っています。竜樹・撒婆・ラゴラの系統を中観(ちゅうがん)派とよびますが、それは仏護(470~540年頃)の時代になってからといいます。
つぎに、ハリヴァルマン(訶梨跋摩250~350年頃)は『成実論』を著し、350年にダルマトラータ(達摩多羅)は『雑阿毘曇心論』を著しています。マイトレーヤ・ナータ(弥勒350~430頃)は『瑜伽師地論』『大乗荘厳経論』を著しています。そして、唯識思想はアサンガ(無着395~470頃)の『摂大乗論』や、弟子とされる弟のヴァスバンド(世親400~480年頃)により理論的に確立しました。世親は始めは小乗の仏教を研究して『倶舎論』を著わし、後に大乗仏教を研究して『唯識三十頌』を著わしました。この唯識学説の思想が後に中国や日本の法相宗に影響をあたえていきます。
中期大乗経典として代表されるのは、どのような人でも仏になれるという如来蔵思想を説いた『涅槃経』です。蔵とは母体のことで、凡夫が成仏の因子を持っていること、また、如来が衆生を蔵していると解釈し、仏性の原語もここにあります。
如来蔵の言葉が始めて説かれたのは『如来蔵経』で、300年頃の成立とされています。『勝鬘経』は350年、『涅槃経』と『楞伽経』は400年頃までに成立したとみられています。如来蔵思想は自性清浄心に淵源し、成仏観は従果向因の法門であることから『華厳経』の思想をうけていることになります。『涅槃経』には悉有仏性を説き、この立場から闡提の
成仏を説きます。仏身については法身を強調して仏身常住を説きます。この如来蔵の思想を組織的に論じたのが『宝性論』で400年頃の成立と見られています。また、真諦が翻訳した『仏性論』も「一切衆生悉有仏性」を説き、同じく真諦が翻訳した『大乗起信論』も如来蔵を説き中国と日本に大きく影響を及ぼしました。
唯識説が説かれた経典は『解深密経』『大乗阿毘達磨経』などで、唯識説の成立は如来蔵思想よりあとの時代になります。『解深密経』は300年ころからの思想で、400年ころに五巻本が成立したとみられており、瑜伽行派の論師によって論書がまとめられました。前にものべたように弥勒・無着そして、世親によって唯識の理論が大成しました。
唯識説は私たちが意識できる眼耳鼻舌身意の六識と、それに対象する客観的な色声香味触法の六境との関係を説いています。そして、この六識の上に末那識を説いて七識とし、さらに、阿頼耶識を説きます。七識は顕在しているので認識できますが、阿頼耶識は潜在的な根源の真理をさし、これを、種子(しゅうじ)として過去の業因を説いています。
世親によって総括された学説は、弟子によって分散され発展していきます。唯識説の系統は陳那(480~540年ころ)と徳慧がおり、陳那の系統は有相唯識派といい、無性(500年ころ)・護法(530~561年)・戒賢(529~645年)と続きます。戒賢に師事した玄奘は『成唯識論』を中国に伝え、これが法相宗の根本論書となります。徳慧の弟子には安慧(510~570年ころ)がおり無相唯識派といいます。この系統に真諦(499~569年)がおり『摂大乗論』により中国に摂論宗ができました。また、中観経量派といわれる清弁(490~570年)がおり、この護法・清弁の時代を中期中観派といいます。
また、陳那の論理学は法称(650年ころ)に受け継がれ、法称によりさらに精緻になり中観派や瑜伽行派に追従者を輩出していきます。清弁の系統に寂護(725~788年ころ)がおり、寂護とその弟子の蓮華戒(740~797年ころ)は無相唯識の思想を取り入れ瑜伽行中観派といわれ、後期中観派の時代になります。このあとインドに獅子賢(800年ころ)が中観派に無相唯識説を取り入れています。
クシャーナ帝国はカニシカ王の以後、3世紀には分裂し、中インドにはチャンドラグプタ1世が建ち320年にグプタ王朝が成立します。つぎのサムドラグプタ王はマウリヤ王朝いらいの大帝国を築き仏教も興隆しました。そして、5世紀の後半、5代帝日王がナーランダー(王舎城の近く)に寺院を建て、こののちも庇護して6世紀には数千の学僧が学ぶ大学となり、ヴィラバーとならんで仏教大学の東西の二大聖地となりました。
後期大乗経典としては密教思想を説く経典があげられます。密教は初期大乗経典が成立したころには既に存在していたといいますが、密教の呪術的なことは非仏教的として排除されており、七世紀になって『大日経』『金剛経』が現れてから発展し、650年ころに密教が成立したといわれています。部派仏教のときには仏陀は菩撒樹の枝や仏足などに示されていましたが、これらの大乗仏教の時代なりますと多像塔寺により仏像の作成が現われ、諸仏の信仰が盛んになります。
700年ころにはナーランダーは密教の寺院となっていたことから、中観派や唯識行派の学派は密教化していたことがわかります。原始仏教には毒蛇除けの呪文である護呪(パリッタ)が説かれており、それが大乗経になりますと陀羅尼・真言と共に雑部密教の経典としてして説かれていきます。密教の経典は膨大で教理の成立から4段階に分かれています。このなかの第二「行タントラ」に『大日経』がふくまれており、この『大日経』は7世紀半ば頃の成立と考えられています。第三の「ヨーガタントラ」に『金剛頂経』があり、この第三と第四の「無上ヨーガタントラ」の成立は8世紀から12世紀ころの成立と考えられています。
一般に密教は竜猛(600年ころ)が開祖とされますが、玄奘がインドに渡ったときには盛んではなく、義浄がインドに入ったころ(672年)から盛んになったといます。とくに中インドに栄えたパーラ王朝(740~1200年ころ)の時代に密教が盛んになり、第二代のダルマパーラ王(780年ころ)はガンジス河の南岸にヴィクラマシラー寺を建て、「六賢門」といわれる密教学者が輩出するほどに発展しました。
玄奘(602~664年)はチベットにも仏教を伝え、ラマ教の基礎をつくっています。チベットに仏教が伝わったのはソンツェンガンポ王(617~649年在位)のときといわれています。チベットには古来からボン教という呪術的な民族宗教があり、これと仏教が融合されてラマ教というチベット仏教になりました。その後、100年ほどして寂護(725~788年ころ)がチベットに招かれサム・イエ寺にて布教します。そして、寂護は瑜伽行派と密教の学者である蓮華生(740~795年ころ)を773年にチベットに招き、密教の教えを広めました。また、寂護の弟子の蓮華戒はサム・イエ寺を拠点としてチベット仏教の基礎を強固なものとしました。
インドにおける仏教はジュニャーナシュリーミトラ(980~1030年ころ)や、ラトナキールティ(1050年ころ)が有相唯識の論理学をのべ、同時代のラトナーカラシャーンティは無相唯識の論理学を立てていました。13世紀頃になると滅びてしまいます。原因はイスラムの仏像崇拝の禁止や仏教のヒンドウー化が考えられていますが、直接的な原因は、
1203年にイスラムの軍隊によりヴィクラマシラー寺や同じく密教寺院であるオーダンタブリ寺が破壊され、インドの仏教は滅びたのです。ブッダは霊魂を否定したのか
――近代仏教学の偏向
掲載日:2010年3月11日
◆近代仏教と霊魂
現代において、「霊」「霊魂」「死者の魂」といった言葉は、公の表現には載りにくいものである。
これは端的に言えば、実証主義的科学や唯物論が隆盛を極めているからである。「霊」の問題は、実証や科学的検証の対象とはならないし、むしろそれらが依って立つ基盤を崩すものであるから、無視・排除の対象となるのである。実証主義的科学や唯物論がなぜここまで隆盛してきたのか、それらは本当に正しいのか、といった問題は、あまりにも大きいものなので、ここでは触れない。
では、伝統的にこうした主題をあつかってきた宗教ではどうか。
両極の姿勢があるようで、一方には「霊」の問題を前面に押し出す宗教があり、もう一方にはそれについて無視・沈黙を保とうとする宗教がある。新興宗教や民俗信仰はおおむね前者であるが、後者には、一部の仏教や神道も含まれるように思われる。
特に近代の仏教では、「霊」の問題は回避される傾向が強いように見受けられる。なぜそうなのかは複雑で理解しにくいところがあるが、最も大きな点は、原始仏教や初期大乗仏教に「霊」を否定する(ように見受けられる)言説があったことではなかろうか。
言うまでもなく、近代仏教学は西洋のキリスト教研究や歴史学の影響を受けている。西洋のキリスト教研究が「歴史的イエス」を探究したように、近代仏教学は「歴史的ブッダ」を探究した。歴史学がキリスト教教団の歴史的展開を明らかにしたように、近代仏教学は仏教の歴史的変遷を明らかにした。
この中で、「霊」問題に関しては、二つの大きな問題が浮かび上がってきた。
一つは、ブッダが「霊」問題に対し、「無記」と否定的に言明したことである。
もう一つは、初期大乗仏教の「中論」や「唯識」の思想において、やはり「霊」問題は否定的に扱われたことである。
ブッダは、「霊の問題は、語っても意味のないこと(答えの出ないこと)だから語らないことにする(無記)」と述べたとされる(ただし「語らない」と言ったので、「ない」と言ったのではない)。さらに「諸行無常・諸法無我」=「すべてのものは変化し、実体は存在しない」として、個人的主体の否定と解釈される考えを述べているので、当然、死後に存続する精神的主体(霊)も否定したとされる。
中論では、ブッダの反実体論をさらに過激に推し進め、あらゆる実在を否定したために、霊魂といった問題が発生する余地もなくなった。唯識では輪廻転生を認めたが、転生する主体は何かという問題に非常に難解な解釈をほどこし、単純な霊魂の生まれ変わりを否定した。
こうした論点を梃子にして、近代仏教学は、「仏教は形而上学(この世を超えた世界を語る思想)ではなく、哲学である」「仏教の本質は悟り(叡智の獲得、ないしは至上の心の状態)であり、あらゆる言説や修行はそれに到る手段である」という姿勢を取るようになった。
《仏教の歴史を通じて、出家であれ在家であれ仏教者たちは、禅定もしくは三昧に入るように修行し、禅定や三昧において仏教的真理を知る知恵を得、悟りを悟っていたと考えられる。禅定や三昧によって表層意識を消滅させつつ深層意識を自覚化していき、最深層意識をも消滅させると同時に、彼自身の実存においてあらゆる衆生にゆきわたる根本真理を知る知恵を得、悟りを悟ったのである。したがって悟りとは、そのようなしかたで自我的な人格から解脱して自由になり、衆生に対して無礙自在にはたらく新しい仏菩薩的人格へと生まれ変わることであるといってよい。》(荒牧典俊「さとり」CD版世界大百科事典)
《第一に仏教そのものは特定の教義というものがない。ゴータマ自身は自分のさとりの内容を定式化して説くことを欲せず、機縁に応じ、相手に応じて異なった説き方をした。だからかれのさとりの内容を推しはかる人々が、いろいろ異なって伝えるにいたったのである。
第二に、特定の教義がないということは、決して無思想ということではない。このようにさとりの内容が種々異なって伝えられているにもかかわらず、帰するところは同一である。既成の信条や教理にとらわれることなく、現実の人間をあるがままに見て、安心立命の境地を得ようとするのである。(後略)》(中村元『ゴータマ・ブッダⅠ』)
ここには「死後の問題」も「霊魂」も登場しない。ブッダおよびその後裔である仏教は、「反超越論的哲学」の旗手となる。そしてこうした近代仏教学の姿勢は、隆盛してきた実証主義的科学や唯物論と「融和的」であった。神や神々や霊といった超越的存在が公的な言説から排除されていく中で、仏教はそうした「超越存在」を捨象した宗教として、自らをアピールしたのである。いささか揶揄的なニュアンスを込めて、仏教が「無神論宗教」とか「最先端の科学と融和する宗教」と言われるのは、こうした近代仏教の「反超越論」(神や霊や他界を語らない)があるからである。
こうした「近代仏教」が真なのか否かは置いておくとして、ここで齟齬が生じたのが、民衆に密着した現場であった。言うまでもなく、中世以来、日本仏教は死者供養を梃子に隆盛してきた。民衆にとって、「お経を読んで死者や迷っている霊を成仏させてくれる人」が僧侶であったのだが、近代仏教では、そうした問題は「本来の仏教ではない」とされてしまったのである。
現場の困惑は察せられる。一方には民衆の「死者成仏」「除霊」「祖先祭祀」「呪力信仰」といった「霊問題へのニーズ」があり、もう一方には近代仏教の「反超越論的哲学」がある。このぶつかり合いの中で、どのような振る舞いが可能なのか、外部からはなかなか想像が及ばない。
筆者は基本的に、宗教とは「この世を超えた世界(霊界、浄土、彼岸、天国など)に関する知識と行為」であり、「この世を超えた存在(死者霊、諸種の非人間霊、天使、神など)の実在を想定する」ものであると捉えているが、仏教(特に近代仏教)のあり方はそれに根本から異を唱えるものであるように見える。果たしてそうなのであろうか。
もちろん、仏教全体にわたってそれを検証することはできない。そこでここでは、ブッダの問題に関してのみ、いささかの検討を加えてみることにしたい。果たして「お釈迦様は霊魂を否定したのか」という問いである。
◆苦の解決
周知のように、歴史上のブッダは、紀元前五世紀ないし四世紀にインド・ネパール国教沿いの小国カピラヴァストゥの王子として生まれ、二十九歳(従来日本仏教では十九歳とされていた)で妻子と国を捨てて出家、二人の仙人について禅を修し至高の境地を得るが飽き足らず、さらに六年間にわたり想像を絶する苦行を行なうがそれでも満足せず、「スジャータの乳粥」で元気を取り戻し菩萨樹の下で再び瞑想行に入り、悟りを開いたとされる。
「自分には夏・冬・雨季それぞれの専用の家があり、女官たちがたくさん侍り、つねに管弦を奏でていた。着る物は最高の絹だけだった」と自ら述懐するような恵まれた王子の生活を捨てて、なぜブッダが出家し修行したのか。「四門出遊」の物語で語られるように「人生は苦である」と観じ、出家沙門に出会いその清らかな姿に感銘を受けたからだと一般に言われているが、個人の動機なので明確に言えるものではないだろう。
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