日本回流 江户时代兵学者 山鹿素水《水月》(手绘)纸本软片
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七五品
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题名日本回流 江户时代兵学者 山鹿素水《水月》(手绘)纸本软片
年代不详
类别水墨(黑白)
材质纸本
装裱形式软片
尺寸59 × 34 cm
款识钤印 素水山鹿高补书
货号HX32
上书时间2023-12-20
商品详情
- 品相描述:七五品
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画心有黄斑,有虫蛀破损,有折痕!!!自然老旧,介意品相者慎拍!!!纸本;画心尺寸:59X34m。
- 商品描述
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山鹿 素水(やまが そすい、生年不詳 - 1857年1月30日(安政4年))は、江戸時代の兵学者。
略歴
通称は八郎左衛門、字は子修、名は高補
山鹿流の祖である山鹿素行の宗家(直系子孫ただし女系を挟む)津軽山鹿氏(惣祖・高恒)の末裔で、遠祖(山鹿素行)から6代目の子孫。
1808年(文化5年)、津軽藩主・津軽寧親に拝謁し家督相続。 1828年(文政11年)、諸国遍歴の旅に出る。唐津・大分の藩士に家伝の山鹿流を教える。大分では豪商・後藤碩田の家を根城にしていたとされる。
変名で京都に在住時、京都守護在番中にあった綾部藩主の九鬼隆都に知られ、教えを授けるようになり、「田原藤兵衛」と名乗る。 これをきっかけに隆都は山鹿流に傾倒、綾部藩大番与力の安藤直章は、素水と相前後する山鹿流兵学の双璧であった幕臣の窪田清音と並び学んでいる[2]。
1837年(天保8年)には、山鹿流が定着していた大垣藩の小原鉄心に伝授、1843年(天保14年)に綾部藩に招かれ、1845年(弘化2年)、剃髪し素水と号し、素行の『武教全書』を復刊[3]。 1851年(嘉永4年)には、長州藩の吉田松陰[注釈 1]、肥後藩の宮部鼎蔵が入門する[5]。
1855年(安政2年)に幕府が講武所を開設、九鬼隆都が総裁、窪田清音が頭取兼兵学師範役に就任する。 幕府の御用学として山鹿流が採用されたのは、素水、九鬼、窪田の関係によるものとされる[6][8]。
先祖素行の山鹿流を海防問題に有効に活用させたいという試みから、理論よりも実地教練を強調した著書が多い[9]。
1857年(安政4年)、隆都の根城である丹波綾部城下に病没。綾部市神宮寺町上藤山の西福院に眠る[10]。
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