日本高僧,禅宗书法高手,临济宗东福寺派管長(管长即本派领袖)福岛庆道(1933年 - 2011年)手书"羊"字,色纸,纸本.典型的临济宗风格书法,
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作者福原庆道
年代不详
页数1页
尺寸27 × 24 cm
上书时间2021-12-02
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福島慶道
美術人名辞典の解説
臨済宗の僧。臨済宗東福寺派管長。昭和8年(1933)兵庫県生。京都住。
福島慶道
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/11/29 15:34 UTC 版)
福島 慶道(ふくしま けいどう、1933年(昭和8年) - 2011年(平成23年)3月1日)は、昭和から平成にかけての臨済宗の禅僧。俗姓は福島。法諱は元照、道号は慶道。室号は更幽軒。管長としての室号は無價室。兵庫県神戸市中央区の出身。臨済宗東福寺派管長(1992年-2011年)[1]
生涯
出生から姉と祖母の死
1933年(昭和8年)、現在の兵庫県神戸市に生まれる。1944年(昭和19年)、小学6年生の時に空襲を避け、神戸市内から集団学童疎開で、岡山県総社市にある、東福寺派の宝福寺へ行き、そこで福島慶道は最初の師匠である岡田熙道に会う。その後神戸市に戻り、焼け野原になっていた神戸で、親代わりをしていてくれた祖母と一緒に暮らす。祖母は昔の女学校を出た人であって、厳格で教育熱心であった。敗戦も間近い1945年(昭和20年)6月5日の大空襲で生家は焼失する。3歳年上の姉は病気の身体で無理をして空襲から逃げたのがたたり病死した。慶道はその時12歳で旧制中学にあがったばかりであったが、戦災で休校となり、疎開した熙道のいる宝福寺にいたので、その姉の死に目にあえなかった。姉の死から僅か1年後、1946年(昭和21年)4月3日には祖母を亡くした。当時流行していた発疹チフスに、祖母と慶道が同時に感染し、二つ並んだ蒲団で医者の診察を受けている時に、祖母が急に亡くなってしまったのである。[2]
得度から大谷大学大学院修了迄
中学の漢文で習った「一子出家すれば九族天に生ず」という一句を思い起こし、慶道は自分が出家して二人の霊を弔おうと決心する。生家の宗旨は真言宗であったが、宝福寺の熙道に出家に関して相談した。1947年(昭和22年)14歳で熙道について得度。熙道の諱は「元享」といい、その一字を取って「元照」と名づけられた。その後高校を卒業するまでは、宝福寺で熙道老師のもと厳しい小僧生活をした。1952年(昭和27年)には南禅寺派管長の柴山全慶の勧めで、京都にある大谷大学に入学した。1956年(昭和31年)大谷大学仏教学科を卒業し大学院へ進んだ。慶道は修士課程の二年間、臨済録と取り組んだ結論として、臨済録は修行しないと読めないと認識し、その後博士課程も修了した。[3]
南禅僧堂から東福寺派管長そして遷化
1961年(昭和36年)28歳で、ようやく南禅僧堂に掛搭して全慶に参じる。その後1974年(昭和49年)全慶遷化の後は、全慶の法嗣である山口県洞春寺高山泰巖に参禅し、嗣法する。[4] 1980年(昭和55年)東福僧堂師家に就任。そして1991年(平成3年)4月より臨済宗東福寺派管長にも就任する。1980年(昭和55年)東福僧堂師家に就任。その後は日本国内だけでなく、米国はじめ欧米での布教活動も本格化させた数少ない臨済宗の老師の一人である(アメリカでの布教活動を参照のこと)。2009年(平成21年)に僧堂師家を退任し栗棘庵に移る。晩年は長く、難病であるパーキンソン病を患ったが、補助を得ながら懸命に指導と布教を続けた。そして2011年(平成23年)3月1日多系統萎縮症のため遷化。世寿79。[5]
アメリカでの布教活動
師匠の全慶老師の禅行脚に3ヶ月同行して、1969年(昭和44年)に初めて渡米。1973年(昭和48年)には、自ら恩師全慶老師の命令で、アメリカ・カリフォルニア州、クレアモント大学へ一年間にわたって禅の指導に赴く。さらには1989年からは、毎年2ヶ月半ほど、全米25の大学などを廻って、禅の布教活動を行った。
さらに慶道が40歳の時、1983年より東福僧堂はクレアモントのポモナ大学と特別提携して、体験的な修行をしたいという学生を僧堂に受け入れていた。これは鈴木大拙の要請を引き継ぎ米国布教に尽力した、師匠である全慶の「アメリカの禅」についての理想達成のため、弟子のひとりとしてその遺志を継承したものである。[6]
参照 アメリカの布教活動に行く事となった、恩師全慶老師とのやり取りに関しては、ウィキペディアの『柴山全慶』の「柴山全慶とアメリカ そして鈴木大拙」の項を参照されたい。
福島慶道
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趙州録の提唱
慶道は1995年(平成7年)5月から2003年(平成15年)1月までの足掛け8年間、趙州録の提唱をした。日本の臨済宗専門道場では碧巌録、臨済録、無門関は何度も、老師による提唱がなされるが、『趙州録』は何故かあまりされない。慶道の法嗣である臨済宗東福寺派管長の原田融道は『趙州録提唱』(福島慶道著)のあとがきで次の様に述べている。「…その趙州和尚の語録、趙州録の提唱は、老師が生前どうしても書物にしたいと希望されていました。…表現力豊かな言葉を、とくに好んでおられました。」[7]
法嗣弟子
原田融道(生没 1959~ 臨済宗東福寺派管長 2009~)
著書
『禅と人生』福島慶道述 富山県教育委員会 1984年
『法句経を聴く』福島慶道述 朝日カルチャーセンター 1984年
『禅は無の宗教』柏樹社 1994年
『フリーマインド』東京出版 1995年
『無心のさとり』春秋社 1998年6月
『法句経のこころ』春秋社 2001年2月
『いま、ここを無心に生きる』春秋社 2005年9月
『東福寺』檀ふみ共著 淡交社 2006年
『禅は無の宗教』春秋社 2007年11月
『趙州録提唱』春秋社 2013年2月
渡马石桥天下响,正看柏树在庭前。心香一片恨千万,吐血赵州无字禅【日本福岛庆道吟罢此句,大喝一声:“无!”见其《赵州塔》诗,《禅》,1998年第6期。】。
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