英文9品Haruki Murakami村上春树SPUTNIK Sweetheart スプートニクの恋人斯普特尼克恋人VINTAGE BOOKS London Sputnik Sweetheart TRANSLATED FROM THE JAPANES BY Philip Gabriel 诺贝尔文学奖候选早期人气上升作品奠定文坛宝座撒手锏恋爱崇拜共产十种语言翻译48开本229页2002第一版
Dance The Elephant banishes Head-boid Wonderland and the End of the World A Wild Sheep Chase Norwegian Wood The Wind-up Bird Chronicle South of the Border West of esun Underground Kafka on the shore
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作者 japanHaruki Murakami日本村上春树著TRANSLATED FROM THE JAPANES BY Philip Gabriel 诺贝尔文学奖候选早期人气上升作品崇拜共产十种语言翻译48开本229页2002第一版
出版社 VINTAGE BOOKS UKLondon 诺贝尔文学奖候选早期人气上升作品奠定文坛宝座撒手锏恋爱崇拜共产十种语言翻译48开本229页2002第一版
ISBN 9780099448471
出版时间 2002-04
版次 1
出版地 英国UK 伦敦London
印刷时间 2002-04
印次 1
印数 2千册
装帧 平装
尺寸 185 × 125 cm
纸张 轻型纸
页数 225页
字数 379千字
定价 600元
正文语种 english 英文英语
货号 1370-16516-kdmkstk
上书时间 2019-01-24
商品详情
品相描述:九品
村上春树9品英文 スプートニクの恋人=斯普特尼克恋人 ) 村上春樹著)人造卫星情人Sputnik Sweetheart好评诺贝尔文学奖候选早期人气上升作品奠定攀登文坛宝座撒手锏爱情恋爱崇拜共产主义世界数十种语言翻译 スプートニクの恋人斯普特尼克恋人人造卫星情人Sputnik Sweetheart 22歳の春にすみれは生まれて初めて恋に落ちた。広大な平原をまっすぐ突き進む竜巻のような激しい恋だった。それは行く手のかたちあるものを残らずなぎ倒し、片端から空に巻き上げ、理不尽に引きちぎり、完膚なきまでに叩きつぶした。――そんなとても奇妙な、この世のものとは思えないラブ・ストーリー!! 内容(「BOOK」データベースより) 22歳の春にすみれは生まれて初めて恋に落ちた。広大な平原をまっすぐ突き進む竜巻のような激しい恋だった。それは行く手のかたちあるものを残らずなぎ倒し、片端から
商品描述
ALSO BY HARUKI MURAKANI Dance Dance Dance The Elephant banishes Head-boid Wonderland and the End of the World A Wild Sheep Chase Norwegian Wood The Wind-up Bird Chronicle South of the Border West of the sun Underground Kafka on the shore after the Guake After Derk原版英文英语English 上春树9品 英文スプートニクの恋人=斯普特尼克 ねじまき鳥クロニクル』の後、『海辺のカフカ この小説で、村上春樹さんはある種の実験のようなものを試みたのではないかと感じています。 この小説の重要なキーワードは、「あっち側とこっち側」でしょう。 見えてるものと見えてないものの境目があいまいになった状況。 この世でたった二人きりの男と女。 ここで呈示されたテーマは、直接的には『1Q84』に引き継がれていったのではないかと思います。 村上さんの圧倒的な筆力で、見知らぬ街が目の前に出現したようです。 ストーリーテラーとしてすごいなぁと思います。 重いテーマをあきさせずに読ませる力は、春樹ファンのみならず、初めて作者の作品を読んだ人(男も女も)を引きつけるにおいを完全に身につけたようです。 生理的な痛みを伝える残酷なトーンが全体をつつんでいますが、最後はあっけなく前を向いています。 喪失することで、次に進むことができる。 喪失には血が流れるが、誠実に何も言わずに受け入れることで乗り越えていく。がんばって乗り越えて行けというのが、メッセージなのかなぁと、作者の前作を読み返す気をおこさせます。作者の喪失感は時代のそれとシンクロすることで、勝手に体に入り込んできますが、少しだけその先への答えがしめされたように思います。 この小説にはなぜか強く心を引きつけられるところがあり、通しで10回くらいは読んでいると思う。 わかりやすく言ってしまえばこれはすれ違いの物語だ。 語り手である「僕」はすみれを求め、すみれはミュウを求める。しかしミュウは誰も求めていない。 それゆえに彼・彼女の思いはどこにも届かず、みんな孤独の中で生きている。 すれ違いに耐えられなくなったのか、すみれは姿を消し、ミュウは心を失ってしまう。 僕もまた満たされない思いを抱えて生き続け、すり減っていくが、自分の生徒との思わぬ交流によって心を取り戻す。 そしてその僕の元に、姿を消したすみれから連絡が届く。 筋立てだけを書いてみるとなんとも奇妙で、一読しただけですんなりと受け入れられる物語ではない。 それゆえに私は何度もこの作品を読んでいるのだろう。 村上春樹の作品はあちらとこちら、2つの世界を行き来する物語が多い。 この作品ではあちらの世界のことがほとんど描かれておらず、こちらの世界に取り残された僕の視点から見たものが描かれている。 その点が作品のわかりにくさになっていて、それを乗り越えるために作者は三人称の文体に移行し、多面的に物語を描くための形式を手に入れていったのだろう。 村上春樹が一人称から三人称に移行していく過程の中間に位置する作品で、村上春樹の作品を系統立てて読むのであれば、はずすことのできない作品だろうと思 多くのクリエーター達の名前がその実績が認められるのと共に本人の元を離れ“ブランド”となるように、“村上春樹”という名前もまた、独自の世界観を持った良質の作品を示す商標として今や世界中で認識されるようになりました。この作品も例外ではありません。 主人公のすみれと語り手の“ぼく”はそれぞれ“どこにも行きつかない袋小路のような恋”に落ちます。お互いにお互いの存在が必要である事を強く感じながらも、自分の感情にひたすら素直に年上の女性との成就し得ない恋に突き進むすみれと、自分のものにはならないと知りながらも彼女を思い、寄り添い続ける“ぼく”。やがて彼らは彼らの孤独な魂が、お互いの中にのみ真実を見出し、お互いの存在を通してのみ世界と結び付く事ができる事に気が付いて行きます。 すみれと“ぼく”がお互いに深く繋がっている事を必要とするように、人が本当の意味で生きていくためには、心の深い部分を開放して繋がる事ができる場所が必要なんだと改めて確認できました。それが、家族や恋人であれ、哲学や宗教であれ、物語であれ、音楽であれ、心全部で繋がれる場所を持つ事で人は力を得、孤独の圧迫を振り払い、前に進む事ができる。そしてそのような魂の居場所を持てるという事はそれだけで本当に特別で幸せな事だと。…この物語はそんな事を私に改めて認識させてくれました。 私などが言うまでもなく、村上印の作品ですので品質は間違いありません(笑)。 私事だけれども、ぼくはしばらく小説とは遠ざかっていて、ぼくの読書はここ数年来、岩波文庫の青帯のような、思想系の本に偏っていた。それでも、昔熱心に読んでいた村上春樹を再読したいという思いはもう五年くらい続いていて、何度も村上春樹を再読したいと思いつつも、それを実現できないことで、フラストレーションを感じていた。いちばん目立つ机の本棚には岩波文庫の青帯を並べていたけれど、それを丸ごと、村上春樹の本と交換した。村上春樹の文庫本だけで30冊、あるいは40冊くらいあるだろうか。自分の視界の真ん中に村上春樹の本がずらりと並んでいるのを眺めているだけで、満足感、充実感のようなものを覚えた。 そして、前置きが長くなったけれども、まずこの『スプートニクの恋人』から読み始めた。今回で通読は三回目くらいだ。ぼくはこの本の内容全体についてまとまったレビューを書くことは、少なくとも現時点ではできない。けれども、今回久し振りに小説というものを一冊読み通してみて思ったのは、混沌たる、不条理な現実を前にして、安易に白黒と結論をくだすのを先送りにして、ただ観察することに徹することは、とても大切なことだし、こうした能力は、小説を読むことで鍛えられるのではないか、ということ。 本書の主人公の「ぼく」は、「あまりにもすんなりとすべてを説明する理由なり論理なりには必ず落とし穴がある。それがぼくの経験則だ。誰かが言ったように、一冊の本で説明されることなら、説明されないほうがましだ。つまり僕が言いたいのは、あまり急いで結論に飛びつかないほうがいいということだよ」と言っている。また、村上春樹の『約束された場所で』のなかでは、「現実というのは、もともとが混乱や矛盾を含んで成立しているものであるのだし、混乱や矛盾を排除してしまえば、それはもはや現実ではないのです」、「そして一見整合的に見える言葉や論理に従って、うまく現実の一部を排除できたと思っても、その排除された現実は、必ずどこかで待ち伏せしてあなたに復讐することでしょう」と言っている。 また、最近読んだ鷲田清一の『哲学の使い方』(岩波新書)という本にも、これと同じ問題について書いてある。 「さらにそれは、すぐにはわからないことにわからないままつきあう思考の体力といいかえてもいいし、すぐには解消されない葛藤の前でその葛藤に晒されつづける耐性といってもいい。 というのも、個人生活にあっても社会生活にあっても、大事なことほどすぐには答えが出ないからである。いやそもそも答えの出ないことだってある。だから、人生の、あるいは社会の複雑な現実を前にしてわたしたちが紡ぐべき思考というのは、わからないけれどもこれは大事だということを見いだし、そしてそのことに、わからないまま正確に対処することだといってもいい。」(鷲田清一『哲学の使い方』、岩波新書、p64) ともあれ、この『スプートニクの恋人』を読み通して、こうした「思考の肺活量」を身につけるためには、小説をたくさん読むことが大切だということがわかった。ぼくがしばらく思想、宗教の本、例えば西田幾多郎、鈴木大拙、木村敏などを熱心に読んでいたのは、かつて自分の置かれていた状況、いま自分の置かれている状況を言葉で理解したいという思いからだった。実際、自分の体験を言語化するために、こうした思想、宗教の本を読む時期は、ぼくにとって必要だったのだと思う。 以上、自分語りが過ぎたな、と反省してはいるが、結論として、個人的に、この小説を読み、混沌とした不条理な現実を前にして、結論を出すのを先送りにして、ただ観察を続けるというような「思考の肺活量」を身につけるために、小説をたくさん読むことは有用なのだということを、改めて感じたということが、ぼくの言いたかったことだ。 すでに以前購入していて電子書籍化してあるのですが、やはり紙媒体で持ち歩きたいとおもい購入。ところが間違えて単行本を買ってしまい結局無駄になりました。ネット購入の落とし穴。最後に購入ボタンを押すときに再度よくみる 村上春樹さん、あんまり好きじゃないけど二作目読んでみた。一作目は何だったか忘れたけど、スラスラ読めて内容もお洒落で(片手がない女の子が出てきたような)まあ可もなく不可もなく。今回は、うーん……。ミュウが私は半分どうのこうの言い出した時点で私的には雲行きが怪しくなったな?という感じで、読むのをやめようか悩んだのですが、とりあえず続行。煙のように消えてしまったの。あれれ?そして最終的にファンタジー。あちらとこちら。うーん…。ミュウのエピソードについてもいまいちしっくりこないし、父親の美貌、母親の不在、少女にとってコンプレックスだということは理解できたけど、そのコンプレックスが少女を作り上げる上でどのように作用したのかがいまいち。まあ小説の内容すべてをきれいに解釈しようと思うのは私の都合なんですが。でも少女が恋に落ちたのはミュウであって、ぼくにではない。あちらの世界に行ったのはミュウが欲しかったから。ぼくが欲しいのであれば現実世界で手に入る。だから、少女があちらの世界に行って求めたものがぼく?という展開にハテナ。話をファンタジーで解決してしまうのは、卑怯なんじゃないかなあと思ったり。ラブストーリー!!じゃねえよ、と突っ込んでみたり。伏線がファンタジーに向かいつつある予感を抱きつつ、あーやっぱり、読んで損したー!という感じです。途中まで真っ当に苦悩を描きつつ、後半は全部放り投げちゃってるのでそれもガッカリだなあ。きれいにまとまってますよー!っていうのも違うかなとは思うんですが。 筋の展開に少し違和感を覚える。すみれの行方不明の原因やその後の様子が分からない。 これ書いてるとき、村上春樹には在日韓国人の彼女がいたんだろうな。韓流ブームもなかった当時に唐突に謎の韓国アゲ。ここからハッキリあっち側に逝っちゃったんだな。それくらい意味不明の設定。ミュウが在日韓国人である必要性は?必然性は?ないだろんなもん。そして韓流ドラマと同じであり得ない人格設定(笑)こんな洗練された韓国人なんか存在せんわ。そもそもこのミュウという女は物語に必用だったのか?だって最後は赤の他人になって、それっきりじゃん。 話自体も意味わからん。すみれはレズだったのに、数週間だか消息不明になったあと帰ってきたらノンケになってるじゃん、何よこれ。てかいい歳して22歳が主人公の小説なんか書いてんなよ村上春樹。年相応の主人公にしろよって無理か。やっぱこいつ商業作家だわ。ノーベル賞?ヘソが茶を沸かす(爆) 小説を読み始めて、小説の世界へ引き込まれる過程で、ずいぶん現実の呼吸感と離れているなあとおもいました(うれしい意味で!)。 小説に合わせるに連れて、脳味噌の普段使っている部分がしだいに休憩していきます。村上さん独特の文脈や呼吸感の影響もあると同時に、時代的なものもある気がしました。 小説が出版された1999年といえば、インターネットはかろうじて使われている程度。フェイスブックやツイッターはおろか、mixiすらありません。 戦後間もなくの小説ではなく、ほんのちょっとネット時代の前の小説だからこそ、大きく変わった空気感、自覚させてもらった気がします。もっとも、これは村上さんの小説独特の世界であることのほうが大きい気がしないこともない。 村上春樹さんの小説は、まだクロニクルしか読んだことがありません。あと何冊か読んでみたいです。 山崎ナオコーラ 論理と感性は相反しない 藤永茂 闇の奥の奥 なかなか凝っている。『ダンス・ダンス・ダンス』以来に読むと、ずいぶんと洗練された印象。ちょっと人物に話させ過ぎな気がする。旅の連れは、旅が終われば別れていく。猫の話は以前に短編になっていた。冒頭から電話での記号と象徴までを、また、「にんじん」の15章も、短編にしてもいい。(ただ、すみれの父の話と「にんじん」の話は対応しているだろうけれど) 「新しいフィクションの枠組み」の中に身を置くことは、「今手にしているすべてのもの」をなくすかもしれない。その無くしたものは何か。 恋する人の喪失は、頻繁に扱われたテーマだけれども、ここではすみれが何を無くしたかが重要だろうと思う。「ぼく」が電話で記号と象徴の話をしたときには、すみれの持つ何かが失われていた。(それは、政治性でないことは確かだ。) 「彼女の書く文章には独特の鮮やかさがあり、自分の中にあるなにか大事なものを正直に書ききろうというまっすぐな心持ちが感じられた。少なくとも彼女のスタイルは誰かのイミテーションではなかったし、手先だけで小器用にまとめられたものでもなかった。」鮮やかさ、正直さ、独特で荒唐無稽といったところが失われた。書くことをやめ、考えることをやめ、新しいフィクションの枠組みのなかへ自分をはめ込んだ。恐らく、それは正しいことなのだろう。その正しさを前にして「ぼく」は、凡庸に佇む。凡庸に佇むことに「芸術的天啓」や「呪術的な洗礼」は必要ない。 以前、すみれは言葉を探していた。「おそらくは根拠不確かな人生を、曲がりなりにも支えてくれる、軸となり柱ともなる言葉を」探し求めていた。しかし、ミュウ(なにかアルゲリッチを思い浮かべさせる)の秘書になることで、幾分か確かな人生となるように見える。しかし、ミュウの体験をきき、すみれの失恋により、トルコに近いギリシャの孤島で(ヨーロッパとアジアの境で)すみれは孤絶した荒野へ消える。(イスラム過激派になっていたわけではないだろう。そうすると、正しさは政治性に変換される。) 何もすみれだけが、言葉を探し求るわけではない。「自分の感情を正当な意味を含む言葉に換えること」は(或る人々には)困難だ。 すみれの父は無味乾燥な人物描写をし、「ぼく」はすみれの代わりにガールフレンドを抱き、ガールフレンドは皮肉を言う、そして「にんじん」は万引きをする。「ぼく」と「にんじん」は、じっくりと話し合うことはない。「にんじん」は一言も喋らない。(鍵を棄てる場面はとてもいい) 「芸術的天啓」や「呪術的な洗礼」を渇望する人々がいる。それが手に入ったり、他のことに忙殺されればひとまずの解決となるだろう。冒頭の小説指南は、小説家志望から批評を求められるからだろうか。 「『いろんなイメージや、情景や、切れ切れの言葉や、人々の姿 ーー わたしの頭の中にあるときには、みんなまぶしく光って生き生きしている。』」短編のような頭の中の断片をより大きな軸でもってまとめるとこのような小説になるのか。 ギリシャに持っていったコンラッドは『闇の奥』と『ロード・ジム』だろうか。 「『俺は何だか君らに夢の話でもしているような気分だよ ーー 虚しいことをしているようなね。というのも、夢の中身をどう語っても、夢の感覚は伝えられないからだ。あの馬鹿らしさと驚きと当惑と反感の混ざり合った感じ。何か信じがたいものにつかまってしまったという思い。それこそが夢の本質なんだが…』 マーロウはしばらく黙っていた。 『…そう、それは不可能だ。どんな経験であれ、生でかんじたままを他人に伝えるのは不可能だ。 ーー 生の感覚こそが、その経験の真実であり、意味であり ーー 捉えがたい深い本質なんだが。不可能なんだ。人はみな独りぽっちで生きている ーー 夢を見る時に独りぽっちなのと同じように…』」 ジョセフ・コンラッド『闇の奥』(69〜70ページ)黒原敏行訳 ねじまき鳥クロニクル』の後、『海辺のカフカ』の前。 振り返ってみれば、この作品はとても重要な位置づけにあるのじゃないかと思われます。 物語は前半と後半でガラリと雰囲気を変えます。 この小説で、村上春樹さんはある種の実験のようなものを試みたのではないかと感じています。 この小説の重要なキーワードは、「あっち側とこっち側」でしょう。 見えてるものと見えてないものの境目があいまいになった状況。 この世でたった二人きりの男と女。 ここで呈示されたテーマは、直接的には『1Q84』に引き継がれていったのではないかと思います。 村上さんの圧倒的な筆力で、見知らぬ街が目の前に出現したようです。 ストーリーテラーとしてすごいなぁと思います。 重いテーマをあきさせずに読ませる力は、春樹ファンのみならず、初めて作者の作品を読んだ人(男も女も)を引きつけるにおいを完全に身につけたようです。 生理的な痛みを伝える残酷なトーンが全体をつつんでいますが、最後はあっけなく前を向いています。 喪失することで、次に進むことができる。 喪失には血が流れるが、誠実に何も言わずに受け入れることで乗り越えていく。がんばって乗り越えて行けというのが、メッセージなのかなぁと、作者の前作を読み返す気をおこさせます。作者の喪失感は時代のそれとシンクロすることで、勝手に体に入り込んできますが、少しだけその先への答えがしめされたように思います。 宇宙船スプートニクに乗って宇宙を旅するライカ犬のように、地球に乗って有限の旅をしているのが私達である、というのがこの物語の主題なのでしょう。いつかは、我々も宇宙船ごと “プツン” と消えます(100%の確率で)。 村上春樹のいつもの主題として(普遍的な宇宙の動作原理でもあるのですが・・・)根底に流れているのは、私達の生活しているこの世界がシンプル(リニアー)な三次元世界などではなく、時・空間の歪んだ(ノン・リニアーな)三次元、あるいは数式では表現できるが、映像としてのイメージとして表現し難い、多次元世界である、という原理・原則です。 “ぼく” の憧れであるすみれは、突然、隣の世界に行ってしまい、すみれの愛するミュウは15年前に、隣の世界へ足を踏み入れ、今は “この世界” と “隣の世界” に半分ずつ分かれてしまったのでしょう。このミュウの不完全さ理由(ゆえ)に、彼女はすみれの愛を受け入れることができないのでしょう・・・・・。すみれは、ミュウの本質が隣の世界に住んでいることに気付いて、入口を探し出し、実際に隣の世界に足を踏み入れてしまいます。 副流としての、すみれとミュウとぼく、三者の恋愛ストーリーとして読んでも ―――例によって完結する物語ではありませんが、――― 面白いです。 ある時期が来ると、読み返したくなる一冊です。春樹氏の世界観でよくある、人間の一部分の消滅や孤独が描かれている。 それは誰にでも起こりうる事柄であり、それこそ煙のように消えてなくなってしまうもの。 では、それは一体何か。人それぞれが、自分自身の存在を維持、証明するものなのかもしれない。 ミュウはある出来事がきっかけで「それ」を失い、すみれはその世界のミュウを求めてあちらの世界へと足を踏み込んでしまったのかもしれない。 そして、すみれを再びこちら側の世界に呼び戻してくれたのは、こちら側のすみれを受け入れ、愛している僕の存在だ。その存在がすみれを押し留めた気がする。 彼の小説の説明や感想は難しいものがある。しかし、その描かれる哀しみを知る者にとってはある種の切なさや共感を呼び込むのだ。 なぜだろうか? 何度読み返しても、その哀しみは僕の心の深い場所へと響き渡る。 最後に描かれている、先生の立場としての僕と生徒ニンジンの描写が、また何かこの物語に味わいを加えている。 最初に読むべき村上春樹の作品 ノルウェーの森、ねじまきは重すぎるが これはさっぱりな風を感じさせてくれた。 このご僕は村上春樹を全作品読めた。 著者のインタビューによると,本書は 「比喩を徹底的に多くしようというのがあらかじめ決めていた,突飛な比喩というのはもうあまり使う機会もないかもしれないから,とにかく洗いざらい虫干ししてしまおう」 というだけあって,印象的な比喩がいくつもあります。 いくつか抜粋してみると, 夜明け前の4時過ぎにかかってきた電話の相手すみれに対して, 「こうして受話器を手に持っていても,崩れかけた石垣を一人で支えている気分なんだ」 「元気だよ。春先のモルダウ川みたいに」 「かぼちゃ畑の真ん中で誰かがつぶやいている牧歌的な独り言みたいに聞こえた」 「カーディガンのボタンを掛け違えたみたいに,すべての物事が一段階ずつ現実との接点を失っていた」 「ひとりぼっちでいるというのは,雨降りの夕方に,大きな河の河口に立って,たくさんの水が海に流れ込んでいくのをいつまでも眺めているときのような気持ちだ」 「ぼくの心を,ほかのどんなものよりも親密に温めてくれた。茫漠とした夜の荒野を抜けていく汽車の窓から,遠くの農家の小さな明かりが見えるように」 また,比喩ではありませんが,印象的な文章をいくつか抜粋します。 「もし,不完全な人生からすべての無駄が消えてしまったら,それは不完全でさえなくなってしまう」 注意深くなるためにどうしたらいいかというすみれの質問に対して 「夏の午後の冷蔵庫の中にあるキュウリのことを考えてもいい」 「あまりにもすんなりすべてを説明する理由なり論理なりには必ず落とし穴がある」 「世界のたいていの人は,自分の身をフィクションの中に置いている」 本書を読むのは三度目ですが,だいたい5年くらい間をあけて再読しているので,毎回新作を読むような気持ちで読書しています。 本書は「ねじまき鳥」や「海辺のカフカ」といった大作の合間に書かれたもので,「国境の南」や「田崎つくる」に近い中編といった分量で,少し地味な印象がありますが,文体に注意して読むと,なかなか,その文学的技巧には感心してしまいます。 著者は、京都市伏見区生まれ、早稲田大学第一文学部卒の村上春樹。 (2001/4/15 ? 2008/1/28 第28刷発行) 「ぼく」は友人であるすみれに恋をしたが、彼女は些か変わっていた。 すみれは、22歳になっても化粧品の一つも持っていなかったし、女の子らしい服も持っていない、そんなすみれが生まれて初めて恋に落ちた。 それは「ぼく」ではなく、すみれの17歳年上の女性だった。 村上春樹の小説を今まで読んだことがなく、本書を1冊目に決めた。 村上春樹の小説で思ったところは、圧倒的な状況描写だと思う。 「要るのかな?」と思うような、事細かに文字で描写された風景は、その描写によって鮮明に浮かびがり、村上春樹ワールドを深淵にすると共に、「彼は今までどんな経験を積み重ねてきたんだろう?」と首を傾げる。 まだ1冊目で、彼の耳目を集め続ける良さはまだ分からないけれど、彼の小説は絵画で言うと、薄い極彩色で描かれた水彩画のようだった。 理解や辻褄を必要としない世界観や文脈の進行、心理描写には他の小説にはない引き込まれるものが確かにあった。次作を読むのも楽しみだ。 これからも一人ひとりの作品を出来るだけ続けて読んでいくつもりです。 『ねじまき鳥クロニクル』の後、『海辺のカフカ』の前。 振り返ってみれば、この作品はとても重要な位置づけにあるのじゃないかと思われます。 物語は前半と後半でガラリと雰囲気を変えます。 この小説で、村上春樹さんはある種の実験のようなものを試みたのではないかと感じています。 この小説の重要なキーワードは、
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